September 30, 2006

外国人政策シンポジウム

うわー、一ヶ月以上もブログ放置してた・・・
って、なんかネットに文章いろいろ書いた気がしてたのは、ミクシィのほうでした、ってことに気づく間抜けさ(苦笑)

ミクシィはクローズドで、くだらないこと含めいろんなことを書いています。

万一ミクシィのほう見たい方がいらしたら、おっしゃってくださいね。
実名で検索できます。

今日のエントリも、もともとはミクシィでの書き込み。
(これから何回かはミクシィでのやり取りを転載作戦でいきます)


昨日は釣り仲間(笑)のSさんのご紹介で「21世紀の外国人政策シンポジウム」へ。
講義があるので、冒頭30分ぐらいしかいられないのはわかっていたのだが、どうしてもその冒頭に行きたかったのだ・・・「前」法務副大臣の河野太郎代議士の基調講演があるからね。

河野太郎といえば、総裁選出馬に意欲を見せて推薦人が集まらずあえなく・・・と聞けば、「自民党の河村たかし?」という感じだが、なんのなんの、掛け値なしのリベラル派政策通である。
というより、安倍-塩崎を出世頭に、石原伸・渡辺喜ら今をときめく政策新人類(ていうかここ、あらためて書いてみると2世・3世ばっかだな)の最後の良心、自民リベラル派の最後の砦である。政策新人類ではかなり出遅れ、下からは山本一太だの世耕だの小泉チルドレンだのに突き上げられ、はなはだ心もとない砦という気もするが、心からがんばってほしい方である。

それはともかく、この河野先生、第三次小泉内閣の法務副大臣として、外国人関係の法整備に、並々ならぬ意欲を燃やしてることは、知っていた。
この前も、「研修生みたいなインチキな制度はもうやめなきゃいけません」という談話が伝わってきて、おって思った。
だから昨日は、基調講演だけでも聴きに行きたかったのね。

一言で言いますと、すばらしい見識でした。
群馬の工場でのフィールドワークをして、現場の声を聞いていた7~8年前から、ここはこうすべきだよなぁ、と個人的に思っていたことを、全部おっしゃってくださる。
もちろん、彼自身いまや非主流派だし、今後どうなるかはまったく不透明。財界と経産省の巻き返しもあるだろう。
ただ、入管の各課の現場経験者からなるPTで、相当たたき上げたと見える彼の見解が、このレベルになっていたというのは、正直評価していいだろう。とりあえず、法務省はこのあたりのことを考えているということで。

箇条書きします。

・外国人受け入れ関連分野の本音と建前の乖離は甚だしい。表を閉めていたけど裏門はがら空き、という状態から、裏門はきっちり閉めて、表門は呼び鈴を押されたら開けよう、という政策に切り替えなきゃならない。

・インチキの最たるものは研修制度。だいたい、不況期に一番苦しい中小企業ほど研修生に頼るという実態自体、立法意図からするとめちゃくちゃな運用がされている最大の証拠。これは、出先の工場で働く現地人材を日本の本社で研修するというような場合を除いて、原則廃止する。

・今まで受け入れ態勢が整っていなかったことのお詫びをしたうえで、受け入れの根拠が血統というところにしかない日系人受け入れは中止。

・日本に非専門職労働力を受け入れる際の基準にすべきは日本語能力。来る以上は社会統合を目指すべきなので、言語能力ははずせない。働いてる間に日本語能力を伸ばしてもらって、基準に達しなければ帰国してもらう。その基準認定に、各受け入れ職場における労働技能に関する資格認定も加える。段階を踏んで、希望すれば、永住権、国籍を付与する。

・労働者受け入れ以前に、日本語を海外に広めていく施設(ドイツのゲーテ・インスティチュートが念頭にあるらしい)を整備していく。もちろん、受け入れ労働者やその家族をフォローするために国内にも。

・導入に当たっては大きく二つの路線がある。ひとつは、先ほどいった日本語能力で入り口を絞って、社会統合を目指すもの。私はこの立場。財界や経産省が主張しているのは、研修制度を拡充してローテーション的な制度を作ること。5年間程度の年限を決めて、純粋な労働力として完全な管理下で受け入れる。もちろん家族呼び寄せは禁止。これの本音は、昇給などの必要がないので、常に低賃金の労働力を受け入れられるということ。これでは実際のところ、搾取を固定化させる短期奴隷とでもいうべき制度ではないか?遠い将来どういうそしりを受けることか?

・外国人を犯罪視している向きの多い現況では、外国人政策に関してのまともな議論ができない。その状況を解除するためにも、外国人犯罪に対する取締りの強化、管理の強化(評判の悪かった指紋の件含む)は必須。

・今現在、特別永住者を除いた外国人比率は1.2%。不法就労に対する取締り、日系と研修の廃止を行えば、当初はこの数字は減るだろうが、中長期的には3%ぐらいを上限になだらかにあげていく。その時点でまた抜本的な議論をする。

・3%というと、現状の倍だが、欧州諸国よりはずっと少ないというレベル。これでは、単純に人口の減った分を外国人で生めるというほどの数にはならない。いわば、「非常に小さい国への縮小」から「小さい国への縮小」に変える程度の、マクロにいえば収縮傾向に多少の歯止めをかける程度のもの。しかし、これ以上に急速に人口構成を変えるようなやり方は、社会的合意が得られないのではないか。


とまあ、おおむね同意可能。
ひとつケチをつけるとすれば、新規の不法入国者に対する管理を厳しくするのは賛成なんだけど、事実上「黙認」した(してなかったとは・・・いわせませんよ、ええ。「縦割り弊害による不作為」も当然責任のうちです)結果として、「バブル期よりここまで日本を支えてきた」超過滞在・不法就労のみなさんへの処遇。彼らには、信義上も、政策整合性の点から言っても、何らかの寛大な正規化措置をとる必要があるだろう。
だって、新規に試験をパスして入国してくる連中よりも、日本語はうまいし、仕事もできるんだから。そして何より、ここまでの零細企業や地域経済への貢献度はそりゃあもう・・・

まあ、これは経過措置みたいな話だし、今日は触れなかっただけかもしれないから、まあいい。


でも、ハタと考える。
確かに、外国人政策、という観点で考えると、河野太郎路線はほとんどケチのつけようがない。
しかし、総合的な労働政策/社会保障政策として考えると、まだまだ突っ込みどころがないだろうか。というより、そういう観点はまったく抜きになっているのではなかろうか。

日本は一般的に思われてるほど、外国人に対して差別的な国ではない。というか、日本人と外国人の待遇差は、ほとんどない。ええ、もちろん、日本人の「非正規」と、ですけどね。
ていうか、日本人の労働条件を切り下げる形で、彼らとの待遇の均等化が起こっちゃったわけ。賃金面だけではない。雇い止めやら待機やら、間接雇用にまつわる厳しい点もほとんど同じ。

丹野清人さんはこの状況を、「雇用ポートフォリオ化」と呼んでいるが、便利なので授業でもよく使わせてもらってる。

バブルのころには、非正規のプールって言うのはすごく少なかった。農村出稼ぎはほとんどいなくなるし、世帯収入が向上して主婦パートに切迫感はないし、まだ専業フリーターはほとんどいない。でも仕事だけは爆発的にあったから、外国人に頼るしかなかった。あくまでも足りない分の穴埋め、という形で。もちろん、キャリアパスも企業の人事管理上の位置づけも、日本人の多くを占める正社員とはまったく異なる。

でもいまはまったく状況が違う。派遣法の改正で、製造業にも派遣がなだれ込む。フリーター層は(偽装)請負も期間工もやるし、主婦パートもぞろぞろ。出稼ぎさえ復活してる。
そんな中の一角としての外国人。熟練につながらないデッドエンドジョブは、非正規にやらせるのが今の企業のデフォルトだが、それを担わせるポートフォリオを作っといて、外国人だろうがフリーターだろうが派遣だろうが、都合のいいときに都合のいい労働力をちょちょいとつまむ。いらないときは後腐れなくサヨウナラ。
だいたいまあ、こんな感じなわけです。


河野先生、いいこと言ってたんだけど、この辺の話というのは、どのあたりまで目配せしてるのか、すごく気になった。

製造業だけ捉えれば、デッドエンドジョブは海外移転でいいじゃないかと言う人もいるかもしれないが(しかしそれさえもジャストインタイムの進展でそう単純なものでもない)、サービス業は移転するわけにいかない。
ビル清掃、弁当屋、道路保守。どんなに生産性が悪くても、こんな仕事を海外移転させることができるはずないわけです。

すると、どんな経済状態、どんな技術革新があったって、かなりの量のデッドエンドジョブを日本社会は抱え続けなきゃならん。
このババを、誰が引くのか。どうやら日本社会は、それを移民に押し付けちゃえ、という風にはなってない。(仏独は半ばそんな感じでやって、いまそのツケを払ってる)

じゃあ、誰が? この状態で外国人を入れてくると、日本人の非正規はどういう状態になるの? それ以前にやっておくべき非正規労働の改善策は?
労働市場の問題だけじゃない。その状態になったときに、「職の競合」意識に駆動された西欧型のレイシズムも起こるんじゃないの? 「雇用ポートフォリオ」の日本なら、なおさら。

とまあ、こういう視点がないと、外国人を含む労働問題というのは基本的に語れないと思うんです。


しかし、河野先生を責めるのも酷というもの。
だってそもそも、外国人関係の専門家って言われる人たち自体に、その視点がほとんどないんだもの・・・外国人の問題は外国人の問題、個別の状況を何とかしましょうね、というだけの話で。
縦割りになってる役人関係は、推して知るべし。厚労省あたりが、もう少し法務と意見交換すべきところなんだろうが。 というか、そもそも厚労省の中で、外国人とフリーターや派遣じゃ、あつかう部局がぜんぜん違うんでしょう。


個人的には、外国人関連のでかい話から手を引いて久しいし(授業では教えてるけど)、もうこの問題を正面から扱うつもりはない、と各所に宣言してきたけど、うーん。
今の仕事を片付けたら(来年ぐらい?)、もう一回勉強しなおして、こちらの業界にもなんとか絡んでいきますかね。もしかしたら、やるべきこと、書くべきことも少しはあるんじゃないかと思いましたですよ。
それには、もう一度しっかりフィールドもやりたいしなぁ。

| | Comments (4) | TrackBack (3)

August 16, 2006

ワーキング・プア? IV

いい加減最後にしましょう。が、終盤にきてちょっと風呂敷広げます。

「貧しくとも暮らせる空間」のソフト面とは、すなわち社会関係資本に関することといってもいい。
(もともとはSocial Capitalの訳語なんだけど、土木国家の日本では、社会資本というと新幹線やら高速道路やらを思い出してしまいがちになるので、社会関係資本という言葉が使われることも多い)

今日びの流行の概念である社会関係資本とは、「資本」という概念が、一般的に考えられる経済資本(つまり金の蓄積)だけでなく、文化資本(教養や立ち居振る舞い、場合によっては学歴も)などを含むさまざまな側面から構成されているという考え方をベースにしている。
そして、経済資本と文化資本、社会関係資本は相互に変換可能なものと考えられている。
直感的にわかる話としては、人と人とのつながりの中で、就職・転職や起業が成功したり、取引先を開拓していくことはよくあるわけだし、互酬的な人間関係が、困窮時の最後の物理的・精神的セーフティネットになりうるわけですよね。そもそも、保証人になってくれる人が一人もいなければ、まともな物件一つ賃貸できません。

もちろん、家族や親族というのも社会関係資本のベースの一つですけど、それだけじゃない。地縁、職縁、さらにはそうしたものには収まりきらない新しいネットワーク的な社会関係資本の蓄積が、洋の東西問わず、さまざまな場面でクローズアップされている。新しい社会関係資本に、SNSみたいなバーチャルなものを持ち上げる人も多い。

地域に人間関係の網の目と、それに基づく相互信頼という社会関係資本が蓄積されているかどうかが、地域発展に決定的に重要だという古典的な実証研究はたくさんあるし、日本の地域社会学や都市社会学では、「封建遺制」「戦時体制の成れの果て」としてことさらに評判が悪かった町内会や地縁組織が、そういった文脈から機能主義的に再評価される動きもあった。

しかし、「ワーキングプア」やかつての「フリーター漂流」に登場したような、田舎での地縁や血縁を切り離して上京してきた若者たちには、そうした従来型の「地域」の社会関係には入り込めない不可視の存在である。従来型の地縁組織は、家族を構成員のベースにしてきた。そもそも、子供の幼稚園や町内会の遠足がなければ、地縁組織と関わるきっかけなんてないからね。
それらの上京者たちは、20世紀後半の時期には「カイシャ」に包摂されて職縁を築き上げてきたわけだが、市場に即応したジャストインタイムの流動性に覆われる現代の職場が、請負や派遣やパートで働く労働者にとって、社会関係資本を蓄積させる場になるはずもない。

それ以前に、地縁やら職縁やらというものは、ここ20年間、日本人に「うざったい」と言われ続けてきたものだったことを忘れちゃいけない。構成員の全員加入を基本とし、年功的な上下関係が存在するコミュニティのべたべたした関係は、とにかく忌み嫌われてきた。
代わりに、「自立した個人」が自発的な関係を築くアソシエーション型のネットワークがもてはやされた。が、そういう自発的な関係性を築くのは、よくも悪くもそれなりにコストがかかることだから、実際にはかなり「敷居が高い」。
まちづくりにせよ、環境系にせよ、地域に存在するあまたのサークルやらボランティアやらに参加できるのは、時間的にも、経済的にもそれなりに余裕があり、自分のコミュニケーション・スキルにそれなりに自信を持っている「市民」様の特権になっているのが現状だろう。

つながりという社会関係資本を作る基盤として、「文化」を重視する人たちもいる。というか、人事のように言えることではなく、カルチュラル・スタディーズみたいな文化左翼がその典型なのだけど。
確かに、「文化」を基盤としたマイノリティの連帯と抵抗という物語は胸を打つし、レゲエやバングラ、ジャングル/ドラムンベースみたいなユースカルチャーが、ロンドンで人種の垣根を越えて人間関係を構築してゆく駆動力になっているいう実証研究は意義深い。

しかし、いまの「文化」や、もう少し砕いて言えば「サブカル」は、本当に人と人をつなぐ役割を果たしているだろうか?
一見そうは見えても、実際には切断する役割を果たしていることのほうが、遥かに多いと思う。

先日の下北沢のシンポジウムでも、それが議論の焦点になった。
たとえば、裏原宿という街。なるほど、裏原宿では、ショップを中心とした人間関係が一種のコミュニティをなしている。裏原宿だけではなく、地元の「ウラカシ」なんかでもそんな感じ。
それを、家庭でも、地縁でも職縁でもない、ファッションやスタイルという文化を掛け金とする新しい「第四空間」的なコミュニティだとして、その可能性を持ち上げたくなる向きも多いだろう。

しかし、実態はどうか。
下北沢での中村由佳さんの報告によれば、裏原宿の「セレクト」ショップやカフェは、商品から店の内装、BGMから店員のトークに至るまで、トータルな「センス」を競い、ファッション好きの若者に「セレクト」されると同時に、客を「セレクト」するという。客のほうも、店舗や裏原宿という空間にふさわしい「文化」を身につけ、そこに集まる連中と話をあわせようと必死だ。個々のショップにつく常連のコミュニティや、それぞれの小さなコミュニティどうしの間では、「センス」をめぐる明示的/非明示的な選別と排除、競争と序列化が、いつ果てるともなく続く。もちろん、その空間にふさわしい「センス」あるなりをするためには、先立つものが相当必要だ。

自分たちは「セレクトされない」自信があった司会者含むパネリストのオヤジ連中はといえば、ウラハラショップのコミュニティの「息苦しさ」と、そこに集まる若者たちの「生きにくさ」に、面食らっていた。それは、単なる「セレクトされない」ちょいダメオヤジの嫉妬ではなかったはずだ。
なるほど、ファッションとショップを起点にしたウラハラのコミュニティは、この世界に関わりたいコたちに何らかの人脈という社会関係資本を提供するだろう。実際に、ウラハラのそのまたウラは、ズブズブのコネ社会/ボス社会で、外面とは随分違うハイアラキカルな仕事の融通が行われているという話はよく聞く。
しかし、その選別的なコミュニティは、無条件で「居場所」を与えたり、相互扶助的なセーフティネットとして--経済的にはもとより、精神的なものとしてさえも--機能することは、原理的にないだろう。三浦展流に言えば、ウラハラに集まる「文化に踊る」下流社会の若者たちにとって、いよいよ金に困ったときの拠り所になるような場所ではない。

裏を返して言えば、現代都市の中では、こんなタコツボ的・島宇宙的な形でしか、われわれは人と人とのつながりを築くことができないのだろうか。そんなところに、オヤジたちは頭を抱えたのだ。

確かに、90年代以降のデフレ進行の中で、物理的な意味では「貧しくとも暮らせる」生活インフラは、都市に揃ってきた(先日触れた、最も肝心な住宅ストック以外では)。安い牛丼、ファストフード、コンビニ。もちろん、そこで働く「ワーキングプア」を大量に生み出しながら、だが。
いまや東京のビッグマックは、世界で一番安い。言うまでもなく、これを豊かさの指標と捉えるのはおかしな話で、下級財としてのビッグマックと上級財との価格差が大きい都市の指標=階層間の購買力と消費性向に大きな差がある都市の指標と考えるべきだ。つまり、この指標の意味するところは、東京はそういう意味で、いまや世界でも有数の、「貧乏人のための安いファーストフード」が供給されている都市だという解釈が正解だろう。

マックも吉野家も、郊外のイオンのショッピングセンターも、誰でも入れて、消費を楽しめる。敷居はめちゃくちゃ低い。ある意味、いま一番多様な人が集まる場所は、こうした「ファスト風土」店--またまた三浦展流に言えば--だろう。
しかし、こうした「ファスト風土」で、裏原宿のような人と人のつながりができることはありえない。そこは、いかに温かな「コミュニティ」感を演出しようとしていたとしても、実際には完全にマーケティングの論理に支配されたインダストリアル・エリアでしかなく、訪れる客は一人頭の単価を計算された消費者でしかないからだ。単なる消費者は、路上ですれ違う以上の、他者との関係性を持ち得ない。

方や、「文化」に踊りながら、その実タコツボ的で息苦しい裏原宿のコミュニティ。
もう一方には、だらしないほど敷居が低いが、完全に資本のマーケティングに管理されたファスト風土。
そのどちらかしかないのだとしたら、状況はかなり絶望的だ。

いまや日本の都市空間に、その間隙はないのか。もう日本の都市には、さして金を持ってない雑多な大衆を、ゆるゆると包含してゆくような空間はないのか。

僕がここ数年来考えてきたことは、その問いのまわりを常にぐるぐるとまわっている。

・・・うん、最後といったけど、もう一回必要かな。ちょっと切ります。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

全方位ヤバス

いま「ワーキングプア」シリーズを書いていたら、こんなニュースが飛び込んできた。

ロシア警備艇、根室の漁船を銃撃 1人死亡

こんなとき鈴木宗男と佐藤優あったれば、と思うのは僕だけではなかろう。

中韓のみならず、ロシアとのパイプもちゃんと生きているのだろうか、とても心配。

山形では加藤紘一の実家と事務所は燃やされるし、もうめちゃくちゃ。

昭和10年ごろだったら、これでイケイケになっているところだろうか。
この辺のころの空気を、ちょっと勉強してみたい。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

August 12, 2006

ワーキング・プア? III

アップしようと思ったら保存してない文章がすべて飛んでやる気を失っておりました。
ここまで間隔があくともういいよ、って感じだけど、しつこく書きます。
「貧しくとも暮らせる空間」の確保と再構築について。

「貧しくとも暮らせる空間」というと、なんと言っても最初に、住宅のことを考えなきゃいけない。
「住む場所」というのが基本であり、一番金かかるところですわ、そりゃ。

しかし、「貧しい」人たちがいないことになっていたこの国で、80年代以降まともな低所得者向けの住宅供給という発想があっただろうか?

市営団地、県営団地がある?
そうゆうのはみんな、家族持ちか、単身なら高齢者か障害者しか入れないじゃないか。いま多くの公営団地が、年寄りと家族で来日するブラジル人で占められつつあるのは、当然の結果である。
「金がないから家族を形成できない」と政府の白書にも明示されている時代に、ちょっとこれはずれ過ぎてやしないだろうか?

確かに日本では、経済的に自立できない若年層が親と同居するというパラサイト・シングル状況が続き、それゆえに「貧しさ」が顕在化するのが引き伸ばされてきた。しかし、山田昌弘さんも指摘するように、パラサイト・シングルがかじるすねも、この5年で急速にやせ衰えつつある。

欧米の都市関係の諸学問や政策の関心の焦点には、ほぼ必ず、低所得者向けの住宅供給(イギリスでは時に"Project"と呼ばれる)というのが入っていて、この種の分野で海外の研究者と話すとき、結構話がかみ合わないことがある。
パリの郊外でも、ロンドンのドックランズでも、低所得者向けの公共住宅には、移民の二世・三世が多くすみ、実質的に貧しい有色移民のゲットーとみなされている。それが昨年末のパリの暴動の背景で、いまこのゲットー化状況をどうするか、というのが関心の焦点だけど、日本の場合はそれ以前に、ゲットー化する基盤となるハード供給すらまともになされていないという、お寒い状況と言うべきだろう。

じゃあ、プライベートな住宅ストックに頼るしかない「貧しい人たち」は実際どこに住んでいるのか?
まずは、都心外周部に堆積している「銭型金太郎」的な築うん十年の木造賃貸アパートということになるのだろうが、そうゆうところこそ、いま「都市再生」の圧力に最もさらされている。が、都市再開発に関する批判は数あれど、再開発により地価と家賃が高騰し、低所得者が都市に住めなくなる、というような視点での批判は、日本には驚くほど少ないように思う。
この辺にも、日本と欧米の関連分野の意識の違いというのを感じていて、欧米でジェントリフィケーションというと、まずはこの低所得者の住宅問題に関する議論が中心となる。これは自戒を込めてだが、日本でジェントリフィケーションの議論をしている人は、商業地域のオサレ方向への再開発を視野に入れている場合が多い。
先日の朝日新聞の「1000ユーロ世代」(なぜか記事が見当たらないので、紹介エントリにリンク)なんかを読んでも、確かにイタリアと日本は状況が似ているのかもしれないが、「1000ユーロ世代」が普通にハウスシェアをしているのに比べて、日本ではぜんぜんそういう習慣は一般的でない。だとすると、ジェントリフィケーションによる低所得者に対する破壊的な効果は、本来日本のほうが欧米よりもずっと激しいはずだ。

もっと路上に直で近いところも見る必要がある。
それは、いわゆる「寄せ場」のバブル期以降の変化だ。

いま、山谷も釜ヶ崎も、もはや「日雇い労働者の町」ではなく、「生活保護とホームレスの町」になっていることはよく知られている。しかし、こうした町や、上野や天王寺などの近隣の公園で、爆発的にホームレスが増え始めたのは90年代前半。それは世代的には、おっちゃんたちのボリュームゾーンがまだ、探そうと思えば日雇い仕事を探せるぐらいの時期であった。

その原因を、西沢晃彦さんは、傑作『隠蔽された外部』の中で、バブル期に簡易宿泊所(いわゆるドヤ)が軒並み改装され、一気に値段が引き上げられたからだ、と論じている。
やたらに仕事があったバブル期に、ドヤはビジネスホテル化し、個室になってコインエアコンがついた代わりに、今までの一泊500円前後が、いきなり一泊2000円以上になった。好況のときはそれでもみんなそこで寝泊りできたが、バブルがはじけて仕事にあぶれるようになると、とてもビジネスホテルで寝泊りなどできず、多くの日雇い労働者が路上に析出されていったというのだ。

それでは、ビジネスホテル経営者のほうも、稼働率が下がり、大変困る。だから今では、釜ヶ崎でも山谷でも、ネット戦略を充実させて外国人バックパッカーや貧乏出張者を顧客にするか、あるいは、おっちゃんらの生活保護費を丸がかえした「福祉マンション」としてちょっとエグイ安定経営を目指すか、、というように二極化しているそうだ。


この辺の政策を考えるときには、公営住宅の単身者・シェア利用の促進にしても、プライベートな低家賃住宅ストックの有効活用にしても、何段構えかの姿勢が必要になるのは言うまでもないが、何にせよ、日本社会が結構貧しい(で、その貧しさ自体は、そう簡単になくならない)という前提に立たないと、まったく進展しない。
バブルのときに、山谷や釜ヶ崎みたいなところでさえ、好況の中で「どんどんよくなる」ことが漠然と前提にされていたから、ビジネスホテルへの改装が次から次に起こったのだろう。

まずは、この認識の共有から、である。
もちろん、社会の誰かを貧困に突き落とすような政策の転換を訴えるのは重要な目標だが、それと「貧しくとも暮らせる空間」の確保を求めてゆくこととを、車の両輪としてやっていかなきゃならない状況に、もうどっぷりつかっている。


そして、「貧しくとも暮らせる空間」にはもうひとつ、ソフトな社会関係資本蓄積の側面がきわめて重要な要素になる。
「貧しくとも人とのつながりを保てる空間」ということだ。

そこはまた、次回にします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 07, 2006

ワーキングプア? II

ちょっと肉体的な疲労がたまり、1日どころか、あっという間に4~5日たってしまいました。
怖い怖い。

そうそう、「貧しくとも生きられる空間」を社会に確保再構築すること、についてでしたよね。

先の「ワーキングプア」のドキュメンタリーで言えば、石巻でリストラにあった30代が、十分な預金残高もなく、親族も知人もいない東京に出てきて職を探せば、いきなり路上に析出されてしまう。彼は東京の中に、仕事のみならず、なんらの社会的な関係性を築けないであがいている。スクリーンに映される限り、肉体的にも、コミュニケーション能力にも、知的能力にも、特段の難があるようには見えないにもかかわらず。

もしかしたら、皮肉にも、彼が「障害者」とカテゴライズされていたのならば、満足いくものかどうかは別として、障害年金に加えて、何らかの「居場所」を与えられたかも知れない。ただし、障害者自立支援法の施行で、そのわずかな居場所であった授産施設や福祉作業所に通えなくなる障害者がたくさん出ていることは、覚えておかなきゃいけない。これまた「自立」の名の元で、単なる切捨てと疎外が起こっている典型例ですね。


話を30代のホームレス氏に戻せば、これは、必ずしも「当たり前の話」ではないのではないか。

僕が90年代末のイギリスで1年半暮らしたとき、当然路上にはホームレスがたくさんいた。
しかし、少なくともビッグ・イシューを売るような形で顕在化している範囲では、意外にも有色人種があまりいなかった記憶がある。特に、インド系--すなわち、イギリスで言うところのAsian--のホームレスは、ほとんど見かけることがなかった。バングラデシュ系などに関して言えば、世帯あたり所得が、全国平均を圧倒的に下回っているにも拘らず、である。

ちゃんと調べたことはないけれど、ここには間違いなく「家族」の問題が絡んでいる。
ごく簡単に言えば、Asianの場合は、誰かが失業しても、生活に窮しても、「家族」(もちろんそこには、われわれの眼から見れば「一族」に見えるビラーデリー単位も含む)でなんとか吸収してしまうので、いきなり路上に析出されたりしないのだろう。
そういった意味では、彼らの場合は、ゴレ(Asianが言うところの白いイギリス人)とは違って、「家族」がセーフティネットというか、いざというときの社会関係資本として機能しているわけだし、ごく単純に言って、ホームレスの問題というのは、単なる貧困の問題ではなく、社会関係資本の問題だというのが、あらためてよくわかる。

ちょっと横道に逸れれば、実はここに、サッチャー、レーガンからブッシュに至る欧米のネオリベラル政権が、「家族の価値」を強調してきたということのミソがあるというのは、よく指摘されてきたところ。
社会福祉を削れば、零れ落ちた人たちが路上に行きやすくなる、だけど、「活力」を増すためには福祉は削らにゃならんし、といって、いざ路上に言っちゃうと、それはそれでまた社会秩序維持のために金がかかる。そうであれば、その分は、家族に吸収してもらうしかないでしょー、という話なわけです。
だからこそ、サッチャー以降の政権は、「現代において、「イギリス人」が持つべき家族の理念をしっかりもっているのは、Asianだ」みたいな、妙な形でのAsianの賞賛を時々したりする。保守思想とリバタリアニズムの結婚ですね。

確かに日本社会は、「家族」がかなりのセーフティネットになってきたおかげで、若年失業層という「問題」の露呈が遅れたわけだけど、山田昌弘さんもいうように、『パラサイト・シングル』論が依拠していた「親のすね」は、ここ5年で急速にやせ細ってきた。じゃあ、Asian Britishよろしく、大家族・拡大家族の復活となるかと言えば、一部可能になる地域もあるだろうけど、一般的にはなりえまい。
いくら細木大先生がわめいたところで、時計の針は逆には回らない。

さてここでもう一度ぐるっと回って、「貧しくとも生きられる空間」を担保する社会インフラや社会関係資本を、「家族」以外であらためて探さなきゃならないわけだ。

と、またまた長くなってきたので、ここで一旦切ります。


| | Comments (0) | TrackBack (1)

June 14, 2006

少しお堅いニュースサイトちっくに(労働法制見直し始動)

玉蹴りに浮かれたり落胆している間に、この辺の事態がだいぶ動き始めてる。

この辺しっかりフォローしておかないといかんなぁ>not研究、but生活

労働契約法波乱含み 雇用ルール法で明確化(4月6日)

「労働契約法」で厚労省がたたき台 労使双方から反発(4月11日)

残業代、引き上げへ 月30時間超のみ、少子化が後押し(6月11日)

労働法制見直し始動 一定年収で残業代なくす制度も提案(6月13日)

出所はここだね。

厚生労働省:第58回労働政策審議会労働条件分科会の開催について

委員名簿はこんな感じ
なかなか錚々たるお歴々。

とかく判例に頼りがちで訴訟の多いこの辺の労働法制を、雇用の流動化も一巡したこのあたりでわかりやすく整備しておこうという意味では、労使ともに異議なし。
少子化対策のための時間外労働の削減、という政府の大義もあり、総裁選も絡みつつ早い動きを示す可能性もあり。

ただし、読みすすめてくと、結構とんでもないことも書いてある。

裁判にもつれた場合も金銭補償をつけての解雇を可能にする仕組みの検討など、フランス人が聞いたら沸騰しそうな内容もあるが、日本の文脈で一番問題含みなのは、「自律的労働」の項目だろう。

一定以上の時間数に対し、賃金の残業割増率を引き上げて時間外労働を減らそうというのがこの見直し論議の中心点なんだが、その使用者側への「見返り」として議論されているのが、一定以上の年収の人を労働時間規制からはずして残業代の適用対象外にする「自律的労働」制度の創設、とのくだりだ。

アメリカのホワイトカラー・エグゼンプションを倣ったものであるが、日本の文脈でこれをやると端的に言って、「サービス残業へのお墨付き」としか聞こえない。気のせいかですか、そうですか。

経団連側は、「自律的労働」の一定基準を年収400万とおいている。
つまり、家族がまともに暮らせそうな給料をもらってたら、それはもう「自己の裁量」で働けてる「自律的労働者」様なのか。「時間管理を受けず、より一層の能力発揮」を望んでいるのか。ふーん、大したもんだ。

もう少し突っ込むと、いろんな論点が一気に湧き上がりそうだから、この辺で。
この話は、今後ブログに書くかどうかはわからないけど、自分なりにフォローしてゆく予定。

それにしても、またぞろ「自律」かよ、「裁量」かよ。
未来を選べ」、か。久しぶりに、人生もキャリアも選ぶ余地なんてなかったのに、無理やり「未来」を選んだスコットランドのガキの話でも見直すか。そろそろ腹くくんなきゃなんないしな。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

September 10, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう III

さて、最後は政局の話である。
具体的にどこに投票し、どういう政権になってくれるのが、「都市の不安定雇用・低所得層の生活を壊す可能性が低いか」という話である。

ここだけ読まれると多分、「このブサヨ氏ね」という結論になるだろうけど、お願いだから「自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう II」を、できれば「自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう I 」もあわせて読んでね。

政権交代の折には文部科学大臣との呼び声も高い宮台さんは、民主党にこう呼びかけている

でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。

そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。
だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

この認識はまったく正しいけど、一つだけ決定的な間違いがあると思う。
現在の民主党が、こういう政策をアピールする可能性は、万に一つもないということだ。

そもそも、岡田克也をトップにし、松下政経塾出身の構造改革原理主義の中堅が政策形成に重要な影響力をもつ現在の民主党は、そういう層への目配せを重視する政党ではない。

朝日新聞にさえ喝破されていたように、自民と民主の二大政党制とは、現状「小さな政府」へのロードマップを競いあっているに過ぎない。
自民が「改革を止めるな」と言えば、民主は「改革のスピードが遅い」「本当の改革が出来るのは民主党だ」と切り返す。前のエントリに書いたような状況にある宮台さんの言う「都市型弱者」にとってみれば、栄養失調で衰弱するか、砒素を飲んで衰弱するか選んでくれと言われているようなものだ。
そういう意味で言えば、どんなに表面的に盛り上がろうが、自民-民主対決が中心の今回の選挙は、どちらを選んでも大差がない「コップの中の嵐」(まあ、別に「ポケットの中の戦争」でもいいけど)でしかないようにも見える。選びようがない。

こんな状況の中で、若年不安定雇用層ら「都市型弱者」にとっての--くどいようだが、「日本全体にとっての」ではない。自分を含む層の利害だけを考えて動かねばならぬほど事態は煮詰まりはじめた--最悪のシナリオとは、こうだ。

改革推進ということで小泉に信認を与える。郵政民営化を手始めに、もちろん構造改革路線を強化。


→ 1年後の自民政権が、構造改革・財政再建路線強化を継承。消費税増税。景気は萎縮、ないしは「ジョブレス・リカバリー」。都市型弱者を筆頭に大半の階層において、家計は苦しくなる一方。カリスマと政局の嗅覚で前任者に遠く及ばない次政権は、これを乗り切れず解散総選挙。


 → 「本当の改革」「改革のスピードアップ」を旗印に、民主党政権樹立。もちろん構造改革・財政再建路線強化。消費税率10%台。景気は萎縮、ないしは「ジョブレス・リカバリー」。都市型弱者を筆頭に実質的な家計は苦しくなる一方。カリスマと政局の嗅覚で前々任者に遠く及ばない次政権は、これを乗り切れず解散総選挙。

 →「改革が手ぬるい」と自民党若手(山本一太? 笑)が決起。政権奪取。もちろん構造改革・・(以下ry

 →以下二大政党制の無限ループ

 →(゚∀゚)アヒャ! イヤー、ニダイセイトウセイッテスバラシイネ!


しかし、一つだけ期待できる要素がある。
それは、民主党という政党が、よく知られているように政策的なバラつきの激しい「寄せ集め」だという点だ。そして、頭でっかちで純粋な人たちが相対的に多いこの政党では、かつての自民党のように「政策的にバラバラでも与党であるためだけに自民党という枠組みを死守する」ような体質にはない。
つまり、常に分裂の危険性を孕んだ政党だということだ。


郵政法案の戦いの舞台が参院に移った7月中旬に、僕は参院否決→衆院解散総選挙になるのは間違いないと思っていたが、実はきわめて楽観的展望をもっていた。
まあ、小泉総理の天才的な嗅覚と、岡田克也の天才的な空気の読めなさを、両方とも過小評価した結果なんだけど・・・

自民分裂選挙

 →民主大勝・岡田政権樹立。

 →与党になると、路線対立が隠しきれず、1年以内に政権瓦解、民主党分裂。

 →旧新進党系、旧さきがけ系、旧民社系、旧社会系を中心とした民主党勢力が、小沢一郎&旧自由系を接着剤に、「郵政反対派」無所属議員と大同団結。

 →場合によっては小泉自民の分解→新党への一部合流、残った松下政経塾系・元官僚の中堅・若手民主は小泉自民に合流。ネオリベ構造改革政党vs社民主義大衆政党という、欧州基準で真っ当な対立軸を備えた二大政党制誕生。ようやく真っ当な路線論争による政権選択選挙が可能に。


「民主分裂まではわかるけど、そのあと大同団結ぅ?」という声が聞こえてきそうだが、この目は結構あったと思う。
近しい人はみんな知っていると思うが、僕は自分自身の研究も絡んで、東京の旧新進系の地方議員さんたちとのお付き合いが濃い。そこでの選挙では、地元選出の代議士(もちろん保守系)をはじめとして、鳩山さん、藤井さんなど、いわゆる保守系の民主党幹部が頻繁に応援演説に来る。

その景色を数年眺めていて、ふと思ったことなのだが、ここ1~2年の年金政策・郵政民営化の攻防を経て、保守系の民主議員が、急速に社民主義的な考えを強めているのだ。
もともとは、小泉政権の構造改革路線の足を引っ張るということから始まった問題意識だろうが、これが思いのほか以前の旧自民時代の自分の根っこと親和性が高いことに、気づき始めているのではないだろうか。

民主党の左派勢力・旧社会/旧民社系と郵政造反組では、共通の土俵は何もない。議論も成立しない。
しかし、横路Gとも近い小沢一郎が接着剤になれば別である。小林興毅や野田聖子はもとより、亀井も綿貫も藤井も乗れる。あるいは田中真紀子も? もちろん新党日本は、田中康夫と近しい小沢一郎がこの可能性を見越して打ち込んだ楔だったことが、そのときに明らかになるだろう。
つまりは、旧経世会の大同団結+穏健左派勢力という組み合わせがありうるのだ。幾度かの再編という荒波を経験し、一度下野して農村型の既得権と縁が切れて結集したこの勢力は、都市無党派層に目を向けるほかはない。そのときにはじめてこの日本に、真っ当で十分に選挙を戦える「都市型リベラル政党」が、不安定雇用層などの「都市型弱者」が乗れる政党が、誕生するのである。


しかし現状では、こういう夢物語なビジョンを見ようにも、その第一歩の前提「民主大勝」がありえなさそう。

だとすると、次善策は何か。
より可能性は低いものの、民主党そのものの体質が、内発的に「都市型リベラル」になることを促すような事態が起きなければならない。そういうことを促す「今回の選挙の負け方」を達成するしかないだろう。

ここからは、憂鬱なことを言うほかはない。
しかし、あえて言わせてもらう。

それは、「民主惨敗、共産倍増」しかないのではないだろうか。
(なぜ社民でなくて共産かというと、2000年の総選挙のころからそれこそブレずに、派遣労働やフリーターの問題、それの裏表である正社員のサービス残業の問題などを訴え続けてきたのが共産党だからである。今でこそ格差社会反対を掲げている社民はといえばそのあいだ何をしていたかと言うと、「行政改革」を強調してみたりてんでバラバラで、そして何より、選挙の最大の争点を常に「ガンコに平和」に置いていた)

民主は、今回の大敗の原因をいろいろ分析することになるだろう。
もちろん、戦術的なまずさで岡田執行部の責任を追求する真っ当な意見も出る。「小泉自民より徹底的な改革ビジョンを打ち出せなかったからだ」と主張する連中も出てくるだろう。
しかし、共産の躍進に、「都市型弱者」の取り込みの必要性を痛感する人も出てくるかもしれない。そこにこそ、民主党のアイデンティティを求めなければならないという意識が、生まれてくるかもしれない。

はっきり言って、このシナリオには、まったく確信がない。相当に可能性の低い「民主党の良心」と「冷静な分析/戦略立案」に一方的に期待をかけるだけのものでしかない。
しかし、ありうべき二大政党制の再編に向かって、現状で何とか見える細い道筋がこのぐらいしかないというのも、悲しいけれど事実だ。

小泉政権に対しての短期的な敗北を認め、中期的な視野にたって、自民党ではなく、民主党にお灸をすえるために、共産党の躍進を望む。
もちろん共産党の外交政策なんておっかないし、彼らに政権を任せたらたちまち破産だが、比例共産党というのも、「都市型弱者」にとって戦術的にはアリかもしれない。自分にもみなさんにも、そう投票することをお奨めするわけではないが、論理的な帰結としては。

| | Comments (6) | TrackBack (2)

September 09, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう II

今回の選挙の核心的な争点は、小泉総理のネオリベラル改革の継続→結果としての格差の増大を是認するかどうか、というところであるということは、だいぶメディアでも取り上げられるようになってきた。

OECDは、ここ5年間の規制緩和の結果先進国最大に急増した日本の不安定雇用人口比率を、社会的不安の原因となりかねないと講評し、日本の貧困率(可処分所得の中央値の50%以下の所得しかない人の割合)が先進国ではアメリカ、アイルランドに次ぐ第三位の15.3%にも達することを指摘した。

もちろん、「高齢化率が高いから」とか「主婦のパート労働を誘導する制度があるから」など、まだまだ「日本は努力をした人が報われない平等社会だ」と言い張りたい側の言い分はいろいろあろう。
しかし、この数字を見せ付けられると、この先には実質もう「アメリカしかない」ことがはっきり印象付けられる。つまりは、アメリカのように流動性が高く、格差も巨大な社会を目指すことに、日本国民は同意するのかしないのか、これを問うのが今回の選挙の核心だということ。その理解は、マスコミにも取り上げられ、普通に広まりつつある。

ただ、それを受け止める反応が、なんとなく浮ついているような感じがするのはなぜだろう。
それが語られるスタジオの空気も、ネットでの受け止め方なんかを見ても、どうにもヒトゴトの話のように上滑りしている感がある。

このデータを理解し、問題の所在を何となくは理解しつつも、小泉改革により「守旧派」のくびきが除かれて「実力社会」の世の中がくれば、現在うだつがあがらない庶民にもチャンスの分け前が降ってくるかのようなふわふわした期待感が、結構蔓延しているように思うのだ。


僕は、以前も書いたとおり、将来の見通しの効かない都市の若年不安定雇用層に属しているという自意識があるので、そういう立ち位置で物事を考えることが多い。
この状況で、急速に拡大しているその層が、小泉改革を支持しているとすれば、おそらく以下のようなタイプにわけられるんじゃないか。

1)ウザイ制度だの既得権だの年寄りだのがなくなれば、俺って結構いい線いけるんじゃないの?


2)より激しい競争社会になったときに勝ち抜く自信まではないが、不透明な社会はよくないので改革は賛成。まあでも、格差が拡大するったって、自分が生活できなくなるほどじゃないでしょ。

3)格差の拡大は、国際競争に勝ち抜き、社会の活力を確保する上では、やむをえないことだろう。プライオリティは、国際競争力の維持・拡大にある。

4)激しい競争社会で勝ち組になれるチャンスの目は、針の穴ほどなのはわかってる。でも、その一攫千金に賭けるのが漢だろう。オッズは高けりゃ高いほどいいよ。俺?運悪く負けて野垂れ死んでも納得できるね。

4)のカイジさんやアカギさんは、ほっとくしかない。以前ちょっと話題になったエントリで触れた話だが、こういう納得づくのギャンブル狂は、信じる神が違うというほかはない。しかし、日本社会にはまだこういう異教徒は多くないと信じたいし、実際そう多くはないと思う。


では、能天気な1)の人へ。
小泉改革をはじめとするネオリベラルな改革がもたらすのは、大抵の場合、庶民が素朴に信じる壮大なガラガラポンではない。現在「すでに勝っている人」の一部が「勝ち組」から没落し、残りの「すでに勝っている人」のもとに富と権力が集中していくという過程をたどることがほとんどだろう。
だってスタートラインが違うわけだからね。

わかりやすいのは官僚である。
彼ら自身、長年「理不尽」で「非効率」な要求を押し付けてくる代議士センセイや業界団体にほとほと嫌気がさしていた。その上、出世コースに乗っているほとんどのキャリアはアメリカに留学し、彼らぐらいの「能力」のある人たちは、日本では考えられないぐらいガンガン稼いでるのを見聞きして、欲の皮が突っ張る。自分に正直な人は、そのまま村上世彰みたいになったが、「談合体質」を打破して効率的で能力のある人に見返りのある社会を作らなければならない、というお節介な正義感に溢れた人は、以前は民主党、いまであれば小泉自民党から出馬して政治を目指すようになる。

基本的な構図はそんなところだろう。そして、あらゆる教育社会学的知見が明らかにしている「機会不平等」の中で、その集中は世代を経て強化・固定化される。

とりあえずあなたたちは、もう少し現実を見据えてください。


2)と3)の人は基本的に同根だ。
ある程度の所得のダウンフォースや、低所得・不安定雇用層への負担増が起こっても、まあ何とかなると思っているから、そう悠長なことを言っていられるのだ。

しかし、それは果たしてそうか?
将来的な予測をめぐっての是非になってしまうので、白黒つけることはできないが、有権者は、もう少し切迫感を持った結果としての「エゴイスト」になるべきなのではないかと感じている。

現在300万そこそこの収入があって、まあ何とかやっている層が、200万以下の収入になっていった時に、いまの生活を守ることが出来るのか? 家族を形成し、子どもを作って、共働きで高校・大学まで通わせることができるのか?
その辺のことを、しっかり具体的な切迫感を持って考えること。何とか生き抜ける「年収300万時代」--この数字は、生活者の発想転換を促すための便宜的な最低所得水準から、守るべき/達成すべき目標へとあっという間に後退した--を脅かしかねない可能性を避けるよう、動くこと。そういうことが必要なぐらいに、いまは追い込まれているのではないだろうか?
そういう意識を強く持っていかなくては、徹底した構造改革の結果、庶民にとっては家族でマクドナルドに行くことが月に一度のイベントになってしまった80~90年代のニュージーランドみたいな状況に、あっという間になってしまうだろう。(余談だが、先日たまプラーザでの応援演説で「郵政民営化賛成」をぶって岩国哲人を困惑させた中田宏横浜市長が、ことあるごとに改革の成功例として持ち上げるのが、このNZである。)

「格差が増大するぐらいの社会でないと活力を保てない」「社会的平等と社会の活力はトレードオフ」という命題そのものは、実際には相当なイデオロギー的思い込みと思われる。

しかし、その議論はいまは置いておく。(とりあえずここを参照のこと。まあ直感的に考えても、デフレ状況下ではリスクチャレンジマインドが萎縮するのは当然のことなのだが・・・)
いま考えるべきなのは、もし仮に「社会の活力」とやらを維持するためには「格差の拡大」がやむないものだったとしても、それでもなお、「負け組」に編入させられる可能性が高い層にとっては、自分の生活に対して確実にマイナス影響の及ぶ「格差の拡大」に反対すべきなのではないか、ということだ。

だいたい、「高額所得者の所得税を引き上げると、頭脳流出が起こって国際競争力を落とす」なんてことを、堀江貴文候補(笑)が主張するならともかく、絶対に自分とは縁のなさそうな人たちが真剣に主張するのをよく耳にするけど、何だかおかしくないか?
マクロに目配せしてそんなご立派なことを言っている余裕など、いまの多くの日本人にはないはずで、自分の生活がどうなるかだけを気にしたほうがいい。
(ちなみに、いまだに日本は強力なる累進課税で、法人税もバカ高いと勘違いしている人もいるかもしれないので書いておくと、所得税の最高税額はここ20年で70%→37%になり、アメリカとほぼ同水準。法人税も度重なる減税の結果、アメリカよりも若干低い39.54%になった。法人税に関しては、英仏のほうがぐっと低いが)


郵政民営化にしたってそうだ。
国民新党の「田舎の郵便局がなくなる」っていう主張は、確かに都会の低所得・不安定雇用層には響かない。
しかし、本当に都会にさえ住んでいれば、何もマイナスがないのだろうか?

よく言われることだが、郵政民営化は長いこと、日本政府に対するアメリカの年次改革要望書の最重点項目だった。アメリカとしては、郵貯・簡保の350兆円という世界最後の広大な秘境=「鎖国マネー」を、グローバル金融資本の回転の中に組み込みたくて仕方がない。小泉はそこと手を組んで、政権を維持してきた。これは明らかな事実だ。
しかし、仮に民営化後の郵貯・簡保が外資の傘下に入ったとして、ハゲタカファンドに350兆が「盗まれる」わけではない。むしろ彼らは、洗練された金融工学の手法で、より「積極的に」運用し、郵貯・簡保のユーザーに高利回りを提供してくれるだろう。日本国民に、またひとつ有利な金融機関の選択肢が生まれるのです、誰が困るというのだ、それを批判するのは噴飯ものだ・・・

そう、確かにそのとおり。
しかし、よく考えてもらいたいのは、ここからだ。民営化し、なかんずく外資の傘下に入った郵貯・簡保で、抽象的な「日本国民」ではなく、「私」は「僕」は、本当に得をするのかと。

郵便局の簡易保険はもともと、大正3年に政府の社会政策の一環として始まったものである。それ以来、無審査、職業による差別がないのが大きな特徴になっている。
しかし、民営化後の、ましてや外資の傘下に入った後の旧簡保はどうなるだろう? 都会のホワイトカラー層にさまざまな魅力的な商品を提供することの見返りに、当然ながら職業によっては加入できなくなる人が出る。既往症や生活習慣病があれば、さらに門戸は狭まるだろう。
もちろん、職業によって掛金の差もどんどん大きくなる。すっかり定着した外資系保険会社の雄、アメリカンホーム保険では、1級職(ホワイトカラー)と3級職(建築作業員やドライバーなどの現業職)では、掛金の差が2倍ほどにもなる。(数年前のこの会社の自動車保険のCMを覚えているだろうか? 優遇保険の適用条件を一つ一つ読み上げると、ブルーカラー風の人たちや若者が効果音と共にどんどん消え去り、それを残った中年の男女がへらへら笑いながら見ている感じの悪いCM。生保と損保の違いはあれど、基本的にノリは一緒である)

あなたが肉体労働で生計を立てているフリーターだとしたら、この一点を持ってしても、郵政民営化には反対するに十分なはずだ。

貯金にしたって、似たようなもの。
リップルウッドに捨て値で買収された新生銀行が先鞭をつけ、日本の都銀も追随していったように、いま銀行は大口預金者を囲い込むべく、彼らに対して、金利を含むさまざまな優遇措置を拡充している。郵貯だって民営化されたら、小口の預金者は、口座維持費とATMでの手数料がボディブローのように効いてくる。

郵政民営化の小難しい議論に首を突っ込んで「大局的に」判断するのも結構だが、とりあえず自分の生活にプラスなのかマイナスなのかで判断することに、最もプライオリティを置くのが自然なのではないだろうか。

これだけ給与水準と生活が下方圧力に晒されてきたのに、それでもなお、「自分の生活」を二の次にして、「大所高所」のイメージ戦略にのっかっている庶民が多いことに、何と言うか、憲法9条オタクにも負けず劣らずの「平和ボケ」を感じてしまう。


では、都市の若年不安定雇用層は、実際にどこに入れるのがいいか。
構造改革で格差を拡大してきた小泉にNOで民主党? そう単純に考えていいのか?

つづくっ!

| | Comments (0) | TrackBack (2)

September 06, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう I

最近はそれほど忙しくない。
でも、ブログで今回の政治のことは語るまいと思っていた。なぜって、経済政策が焦点の今回の選挙の中で、もともと僕はリフレ派で、構造改革にはあまりポジティブではないけれど、それを文章で主張するだけの確信が未だ持ててなかったから。
だから、この機会に、あまり人様に何かを主張するというイタイことをせず、経済政策を一から勉強しなおそうと思っていた。

しかし、本来はチラシの裏に書くべきことなのかもしれないけど、それでもやはり、ネットの片隅にでもひっそりと書いておかないとあとで後悔するような気がし始めたので、何度かにわたって選挙に向けた自分の考えを書くことにする。

そう考えを変えた由縁は、非常に嫌なものを、いまの政権が目指しているであろう目的地に見てしまったからだ。

僕が以前のホームページを作りはじめたのは、小泉政権の軌跡とほぼ重なっている。
その頃から感じていた「社会が壊れる」という感覚を、このブログを始めた1年前ごろから、徐々に深刻なものとして自覚化できるようになってきた。

自己責任異論 I
「社会が壊れる」について
NHK「日本のこれから・格差社会」について

そして、泥濘のニューオーリンズには、はっきりと「壊れた社会」が像を結んでいた。

車がなくて避難できなかったらほっとかれるような社会に、住みたくない。
月初に届く福祉給付を使い切ってしまったら、月末のハリケーンから逃げ出す資金もなくなるような社会に、住みたくない。
スリランカやニコバルでも起こらなかったような、救援物資をめぐる銃撃戦が起こるような社会に、住みたくない。
略奪することと、略奪から守るためにセキュリティを厳格にすることが合理的な選択となってしまったような社会に、住みたくない。

20年後に関東直下型地震なり東海・東南海連動地震なりが起こったとき、そんな事態に巻き込まれて、「30年前の神戸のときはまだしもいい時代だったなぁ」などとシャレにならない後悔をしたくないのである。


ここのところ経済政策を勉強させてもらっている、ネット上のリフレ派総本山(?)のサイトである、bewaad institute@kasumigasekiに、以前こんなエントリがあった。

ここに取り上げられている障害者自立支援法案っていうのは、要は障碍者という集団の「既得権」を奪う配分ルールのネオリベラル的な変更に他ならないわけだけれど、このエントリーから触発されたことをまとめると、こういうことだ。

小泉政権は、閉塞感を抱える大衆の漠然とした期待感に呼びかけ、改革支持の熱狂の中でまず総論を固めてしまう。
「この国は変わらなければいけない」、と。
4年前そうやって総理になった彼は、その後も天才的な嗅覚で、少しずつ支持率が下がるたびに政治的なイベントを仕掛け、大衆の熱狂を断続的に爆発させてきた。もちろん、今回の解散もその一つである。

(余談だが、実は僕にも、1週間だけ小泉政権発足を慶賀したイタイ記憶がある。2001年の4月、僕はパキスタンのカラチにいて、ウルドゥ語紙の記事を友人に訳してもらって小泉政権誕生を知った。日本を出発する時には橋本再登板で決まりだというムードだった情勢でのこのニュースはやはり、僕のようなヒネクレ者でさえも小躍りさせるような新鮮なインパクトがあった。もっとも、1週間後帰国して閣僚名簿に竹中平蔵の名を見つけ、この政権の本質を直感してすっかり落胆したが)

そして、総論としての大衆的な改革支持を取り付けた上で、特殊法人、道路に代表される公共事業、郵政、社会保障などの各論において抵抗勢力を分断撃破する。
各個の既得権益者は、それぞれそれほど数が多いわけではないから、大多数の利益をむさぼる少数の「抵抗勢力」として簡単にレッテル張りし、それを攻撃して溜飲を下げることができる。特殊法人も、道路公団も、建設事業者も、特定郵便局も、そして障碍者も。

もちろん、そのレッテル張りが「間違ってない」場合も多いかもしれない。「合理的」に判断して、なぜ「痛み」を甘受してもらわなければならないのか、とくとくと説明しなければならない局面も多々生まれるだろう。

しかし問題なのは、「老人」としてであれ、「子ども」としてであれ、「主婦」としてであれ、「労働組合員」としてであれ、「所得税を払わなくて済んでいる低所得者」でとしてであれ、多くの国民は、みなそれぞれが、何らかの形で既得権者であり、その意味では常に、多数に寄生する少数派だということだ。
そこに、改革に賛成するという総論=イデオロギーのもとに、次々に既得権者=少数派が「抵抗勢力」と見なされて各個撃破される。それぞれへの切り捨て作戦のもとでは、各「抵抗勢力」が周囲から孤立させられ、その際には、次の作戦で槍玉に挙げられる別の「抵抗勢力」は、得てして改革を支持する「大衆」の側にいる。

もちろん、それで改革が進めばいいだろう、という考え方もある。自分も、戦術的にはそういう局面があることを否定しない。
しかし、さらに問題なのは、この構図が導く「社会の崩壊」の可能性である。

この構図での「分断統治」と「各個撃破」は、社会の各集団が互いをパイを奪う対象として敵視しあう状態を帰結しかねないからである。
いまは国のレベルの議論しか表面上は見えないが、国政のレベルで行われるパイの奪い合いと、「抵抗勢力」というレッテルの張り合いは、常にローカルなところに基盤をおいている。その殺伐とした感覚が、地域社会を覆い尽くしていったら・・・?

上記エントリによれば、構造改革を支持する財界ではいまや、新しい公共という考え方が出てきているという。
要は、社会保障を縮小せざるを得ないこれからの時代に必要なのは、地域に張り巡らされたソーシャル・キャピタル(社会関係資本)、つまりは人と人との結びつきや信頼感の網の目である、ということである。
(もちろん、逆に言うと、「金は出さない(出せない)」「官に頼るな」の言い訳に、ソーシャル・キャピタルだの、人間力だのっていうスローガンを持ち出して推奨しているわけだが)

それは、まったくもって正しい。
しかし、相手の痛みに共感した真摯な説得も、ギリギリの原則をぶつけ合う激しい議論も尽くすことなしに、順々に「抵抗勢力」とレッテル貼りして大衆の感情を動員するだけで、既得権者を屠ってゆく政治のあり方は、残念ながらソーシャル・キャピタルの蓄積とは正反対に向かいはしないか。

「自助努力」のないシングルマザーを、低所得者を、そして黒人を、槍玉に挙げてきたアメリカ社会が、既に壊れていたということを、他人事と思うべきではない。

つづくっ!

| | Comments (3) | TrackBack (4)

August 18, 2005

うわっ節操ない!とマニアックな勘違いをした件について

福岡1区からの擁立が既定路線っぽい彼氏の件ですが、このニュース見て、うっそぉ、民主から出んの? しかも東京? って一瞬アワアワしてしまいました。

まあ、一部の方たち以外、みなさん見ても、何の面白みも伝わらないでしょうが。

堀江氏の擁立は党に一任 自民党福岡県連

そりゃあさあ、上も下もよくある名前だけど、いくらなんでも都議会民主党幹事長自民党福岡県連幹事長が同姓同名って、偶然にもほどがあるだろう・・・(>_<)

上野の中村明彦さんのほうは、新都議会開催にあたっての討論番組@明後日朝に出るってFAXが入ってきた。
いいぞ、テレ東、こういうの。淡々としてて。千葉都民はMX見れないんだから。
とりあえず、ガイアの夜明けとハロモニ(とヘビメタさん)だけじゃないんだぞ、と。

| | Comments (0) | TrackBack (0)