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September 12, 2005

お祭りは終わり。

自己責任社会大好きなみなさんも、そうでないみなさんも、今日はもう勝ち誇りも負け惜しみも切り上げて、ガッツリ儲けましょう

まだ一時間あるよ♪

自分の暮らしを守るためにやるべきこととは、そういうこと。
昨日は投票、それでダメなら、今日は株。

くよくよしているヒマはない。

空しさも中ぐらいなり秋の月。

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September 10, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう III

さて、最後は政局の話である。
具体的にどこに投票し、どういう政権になってくれるのが、「都市の不安定雇用・低所得層の生活を壊す可能性が低いか」という話である。

ここだけ読まれると多分、「このブサヨ氏ね」という結論になるだろうけど、お願いだから「自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう II」を、できれば「自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう I 」もあわせて読んでね。

政権交代の折には文部科学大臣との呼び声も高い宮台さんは、民主党にこう呼びかけている

でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。

そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。
だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

この認識はまったく正しいけど、一つだけ決定的な間違いがあると思う。
現在の民主党が、こういう政策をアピールする可能性は、万に一つもないということだ。

そもそも、岡田克也をトップにし、松下政経塾出身の構造改革原理主義の中堅が政策形成に重要な影響力をもつ現在の民主党は、そういう層への目配せを重視する政党ではない。

朝日新聞にさえ喝破されていたように、自民と民主の二大政党制とは、現状「小さな政府」へのロードマップを競いあっているに過ぎない。
自民が「改革を止めるな」と言えば、民主は「改革のスピードが遅い」「本当の改革が出来るのは民主党だ」と切り返す。前のエントリに書いたような状況にある宮台さんの言う「都市型弱者」にとってみれば、栄養失調で衰弱するか、砒素を飲んで衰弱するか選んでくれと言われているようなものだ。
そういう意味で言えば、どんなに表面的に盛り上がろうが、自民-民主対決が中心の今回の選挙は、どちらを選んでも大差がない「コップの中の嵐」(まあ、別に「ポケットの中の戦争」でもいいけど)でしかないようにも見える。選びようがない。

こんな状況の中で、若年不安定雇用層ら「都市型弱者」にとっての--くどいようだが、「日本全体にとっての」ではない。自分を含む層の利害だけを考えて動かねばならぬほど事態は煮詰まりはじめた--最悪のシナリオとは、こうだ。

改革推進ということで小泉に信認を与える。郵政民営化を手始めに、もちろん構造改革路線を強化。


→ 1年後の自民政権が、構造改革・財政再建路線強化を継承。消費税増税。景気は萎縮、ないしは「ジョブレス・リカバリー」。都市型弱者を筆頭に大半の階層において、家計は苦しくなる一方。カリスマと政局の嗅覚で前任者に遠く及ばない次政権は、これを乗り切れず解散総選挙。


 → 「本当の改革」「改革のスピードアップ」を旗印に、民主党政権樹立。もちろん構造改革・財政再建路線強化。消費税率10%台。景気は萎縮、ないしは「ジョブレス・リカバリー」。都市型弱者を筆頭に実質的な家計は苦しくなる一方。カリスマと政局の嗅覚で前々任者に遠く及ばない次政権は、これを乗り切れず解散総選挙。

 →「改革が手ぬるい」と自民党若手(山本一太? 笑)が決起。政権奪取。もちろん構造改革・・(以下ry

 →以下二大政党制の無限ループ

 →(゚∀゚)アヒャ! イヤー、ニダイセイトウセイッテスバラシイネ!


しかし、一つだけ期待できる要素がある。
それは、民主党という政党が、よく知られているように政策的なバラつきの激しい「寄せ集め」だという点だ。そして、頭でっかちで純粋な人たちが相対的に多いこの政党では、かつての自民党のように「政策的にバラバラでも与党であるためだけに自民党という枠組みを死守する」ような体質にはない。
つまり、常に分裂の危険性を孕んだ政党だということだ。


郵政法案の戦いの舞台が参院に移った7月中旬に、僕は参院否決→衆院解散総選挙になるのは間違いないと思っていたが、実はきわめて楽観的展望をもっていた。
まあ、小泉総理の天才的な嗅覚と、岡田克也の天才的な空気の読めなさを、両方とも過小評価した結果なんだけど・・・

自民分裂選挙

 →民主大勝・岡田政権樹立。

 →与党になると、路線対立が隠しきれず、1年以内に政権瓦解、民主党分裂。

 →旧新進党系、旧さきがけ系、旧民社系、旧社会系を中心とした民主党勢力が、小沢一郎&旧自由系を接着剤に、「郵政反対派」無所属議員と大同団結。

 →場合によっては小泉自民の分解→新党への一部合流、残った松下政経塾系・元官僚の中堅・若手民主は小泉自民に合流。ネオリベ構造改革政党vs社民主義大衆政党という、欧州基準で真っ当な対立軸を備えた二大政党制誕生。ようやく真っ当な路線論争による政権選択選挙が可能に。


「民主分裂まではわかるけど、そのあと大同団結ぅ?」という声が聞こえてきそうだが、この目は結構あったと思う。
近しい人はみんな知っていると思うが、僕は自分自身の研究も絡んで、東京の旧新進系の地方議員さんたちとのお付き合いが濃い。そこでの選挙では、地元選出の代議士(もちろん保守系)をはじめとして、鳩山さん、藤井さんなど、いわゆる保守系の民主党幹部が頻繁に応援演説に来る。

その景色を数年眺めていて、ふと思ったことなのだが、ここ1~2年の年金政策・郵政民営化の攻防を経て、保守系の民主議員が、急速に社民主義的な考えを強めているのだ。
もともとは、小泉政権の構造改革路線の足を引っ張るということから始まった問題意識だろうが、これが思いのほか以前の旧自民時代の自分の根っこと親和性が高いことに、気づき始めているのではないだろうか。

民主党の左派勢力・旧社会/旧民社系と郵政造反組では、共通の土俵は何もない。議論も成立しない。
しかし、横路Gとも近い小沢一郎が接着剤になれば別である。小林興毅や野田聖子はもとより、亀井も綿貫も藤井も乗れる。あるいは田中真紀子も? もちろん新党日本は、田中康夫と近しい小沢一郎がこの可能性を見越して打ち込んだ楔だったことが、そのときに明らかになるだろう。
つまりは、旧経世会の大同団結+穏健左派勢力という組み合わせがありうるのだ。幾度かの再編という荒波を経験し、一度下野して農村型の既得権と縁が切れて結集したこの勢力は、都市無党派層に目を向けるほかはない。そのときにはじめてこの日本に、真っ当で十分に選挙を戦える「都市型リベラル政党」が、不安定雇用層などの「都市型弱者」が乗れる政党が、誕生するのである。


しかし現状では、こういう夢物語なビジョンを見ようにも、その第一歩の前提「民主大勝」がありえなさそう。

だとすると、次善策は何か。
より可能性は低いものの、民主党そのものの体質が、内発的に「都市型リベラル」になることを促すような事態が起きなければならない。そういうことを促す「今回の選挙の負け方」を達成するしかないだろう。

ここからは、憂鬱なことを言うほかはない。
しかし、あえて言わせてもらう。

それは、「民主惨敗、共産倍増」しかないのではないだろうか。
(なぜ社民でなくて共産かというと、2000年の総選挙のころからそれこそブレずに、派遣労働やフリーターの問題、それの裏表である正社員のサービス残業の問題などを訴え続けてきたのが共産党だからである。今でこそ格差社会反対を掲げている社民はといえばそのあいだ何をしていたかと言うと、「行政改革」を強調してみたりてんでバラバラで、そして何より、選挙の最大の争点を常に「ガンコに平和」に置いていた)

民主は、今回の大敗の原因をいろいろ分析することになるだろう。
もちろん、戦術的なまずさで岡田執行部の責任を追求する真っ当な意見も出る。「小泉自民より徹底的な改革ビジョンを打ち出せなかったからだ」と主張する連中も出てくるだろう。
しかし、共産の躍進に、「都市型弱者」の取り込みの必要性を痛感する人も出てくるかもしれない。そこにこそ、民主党のアイデンティティを求めなければならないという意識が、生まれてくるかもしれない。

はっきり言って、このシナリオには、まったく確信がない。相当に可能性の低い「民主党の良心」と「冷静な分析/戦略立案」に一方的に期待をかけるだけのものでしかない。
しかし、ありうべき二大政党制の再編に向かって、現状で何とか見える細い道筋がこのぐらいしかないというのも、悲しいけれど事実だ。

小泉政権に対しての短期的な敗北を認め、中期的な視野にたって、自民党ではなく、民主党にお灸をすえるために、共産党の躍進を望む。
もちろん共産党の外交政策なんておっかないし、彼らに政権を任せたらたちまち破産だが、比例共産党というのも、「都市型弱者」にとって戦術的にはアリかもしれない。自分にもみなさんにも、そう投票することをお奨めするわけではないが、論理的な帰結としては。

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September 09, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう II

今回の選挙の核心的な争点は、小泉総理のネオリベラル改革の継続→結果としての格差の増大を是認するかどうか、というところであるということは、だいぶメディアでも取り上げられるようになってきた。

OECDは、ここ5年間の規制緩和の結果先進国最大に急増した日本の不安定雇用人口比率を、社会的不安の原因となりかねないと講評し、日本の貧困率(可処分所得の中央値の50%以下の所得しかない人の割合)が先進国ではアメリカ、アイルランドに次ぐ第三位の15.3%にも達することを指摘した。

もちろん、「高齢化率が高いから」とか「主婦のパート労働を誘導する制度があるから」など、まだまだ「日本は努力をした人が報われない平等社会だ」と言い張りたい側の言い分はいろいろあろう。
しかし、この数字を見せ付けられると、この先には実質もう「アメリカしかない」ことがはっきり印象付けられる。つまりは、アメリカのように流動性が高く、格差も巨大な社会を目指すことに、日本国民は同意するのかしないのか、これを問うのが今回の選挙の核心だということ。その理解は、マスコミにも取り上げられ、普通に広まりつつある。

ただ、それを受け止める反応が、なんとなく浮ついているような感じがするのはなぜだろう。
それが語られるスタジオの空気も、ネットでの受け止め方なんかを見ても、どうにもヒトゴトの話のように上滑りしている感がある。

このデータを理解し、問題の所在を何となくは理解しつつも、小泉改革により「守旧派」のくびきが除かれて「実力社会」の世の中がくれば、現在うだつがあがらない庶民にもチャンスの分け前が降ってくるかのようなふわふわした期待感が、結構蔓延しているように思うのだ。


僕は、以前も書いたとおり、将来の見通しの効かない都市の若年不安定雇用層に属しているという自意識があるので、そういう立ち位置で物事を考えることが多い。
この状況で、急速に拡大しているその層が、小泉改革を支持しているとすれば、おそらく以下のようなタイプにわけられるんじゃないか。

1)ウザイ制度だの既得権だの年寄りだのがなくなれば、俺って結構いい線いけるんじゃないの?


2)より激しい競争社会になったときに勝ち抜く自信まではないが、不透明な社会はよくないので改革は賛成。まあでも、格差が拡大するったって、自分が生活できなくなるほどじゃないでしょ。

3)格差の拡大は、国際競争に勝ち抜き、社会の活力を確保する上では、やむをえないことだろう。プライオリティは、国際競争力の維持・拡大にある。

4)激しい競争社会で勝ち組になれるチャンスの目は、針の穴ほどなのはわかってる。でも、その一攫千金に賭けるのが漢だろう。オッズは高けりゃ高いほどいいよ。俺?運悪く負けて野垂れ死んでも納得できるね。

4)のカイジさんやアカギさんは、ほっとくしかない。以前ちょっと話題になったエントリで触れた話だが、こういう納得づくのギャンブル狂は、信じる神が違うというほかはない。しかし、日本社会にはまだこういう異教徒は多くないと信じたいし、実際そう多くはないと思う。


では、能天気な1)の人へ。
小泉改革をはじめとするネオリベラルな改革がもたらすのは、大抵の場合、庶民が素朴に信じる壮大なガラガラポンではない。現在「すでに勝っている人」の一部が「勝ち組」から没落し、残りの「すでに勝っている人」のもとに富と権力が集中していくという過程をたどることがほとんどだろう。
だってスタートラインが違うわけだからね。

わかりやすいのは官僚である。
彼ら自身、長年「理不尽」で「非効率」な要求を押し付けてくる代議士センセイや業界団体にほとほと嫌気がさしていた。その上、出世コースに乗っているほとんどのキャリアはアメリカに留学し、彼らぐらいの「能力」のある人たちは、日本では考えられないぐらいガンガン稼いでるのを見聞きして、欲の皮が突っ張る。自分に正直な人は、そのまま村上世彰みたいになったが、「談合体質」を打破して効率的で能力のある人に見返りのある社会を作らなければならない、というお節介な正義感に溢れた人は、以前は民主党、いまであれば小泉自民党から出馬して政治を目指すようになる。

基本的な構図はそんなところだろう。そして、あらゆる教育社会学的知見が明らかにしている「機会不平等」の中で、その集中は世代を経て強化・固定化される。

とりあえずあなたたちは、もう少し現実を見据えてください。


2)と3)の人は基本的に同根だ。
ある程度の所得のダウンフォースや、低所得・不安定雇用層への負担増が起こっても、まあ何とかなると思っているから、そう悠長なことを言っていられるのだ。

しかし、それは果たしてそうか?
将来的な予測をめぐっての是非になってしまうので、白黒つけることはできないが、有権者は、もう少し切迫感を持った結果としての「エゴイスト」になるべきなのではないかと感じている。

現在300万そこそこの収入があって、まあ何とかやっている層が、200万以下の収入になっていった時に、いまの生活を守ることが出来るのか? 家族を形成し、子どもを作って、共働きで高校・大学まで通わせることができるのか?
その辺のことを、しっかり具体的な切迫感を持って考えること。何とか生き抜ける「年収300万時代」--この数字は、生活者の発想転換を促すための便宜的な最低所得水準から、守るべき/達成すべき目標へとあっという間に後退した--を脅かしかねない可能性を避けるよう、動くこと。そういうことが必要なぐらいに、いまは追い込まれているのではないだろうか?
そういう意識を強く持っていかなくては、徹底した構造改革の結果、庶民にとっては家族でマクドナルドに行くことが月に一度のイベントになってしまった80~90年代のニュージーランドみたいな状況に、あっという間になってしまうだろう。(余談だが、先日たまプラーザでの応援演説で「郵政民営化賛成」をぶって岩国哲人を困惑させた中田宏横浜市長が、ことあるごとに改革の成功例として持ち上げるのが、このNZである。)

「格差が増大するぐらいの社会でないと活力を保てない」「社会的平等と社会の活力はトレードオフ」という命題そのものは、実際には相当なイデオロギー的思い込みと思われる。

しかし、その議論はいまは置いておく。(とりあえずここを参照のこと。まあ直感的に考えても、デフレ状況下ではリスクチャレンジマインドが萎縮するのは当然のことなのだが・・・)
いま考えるべきなのは、もし仮に「社会の活力」とやらを維持するためには「格差の拡大」がやむないものだったとしても、それでもなお、「負け組」に編入させられる可能性が高い層にとっては、自分の生活に対して確実にマイナス影響の及ぶ「格差の拡大」に反対すべきなのではないか、ということだ。

だいたい、「高額所得者の所得税を引き上げると、頭脳流出が起こって国際競争力を落とす」なんてことを、堀江貴文候補(笑)が主張するならともかく、絶対に自分とは縁のなさそうな人たちが真剣に主張するのをよく耳にするけど、何だかおかしくないか?
マクロに目配せしてそんなご立派なことを言っている余裕など、いまの多くの日本人にはないはずで、自分の生活がどうなるかだけを気にしたほうがいい。
(ちなみに、いまだに日本は強力なる累進課税で、法人税もバカ高いと勘違いしている人もいるかもしれないので書いておくと、所得税の最高税額はここ20年で70%→37%になり、アメリカとほぼ同水準。法人税も度重なる減税の結果、アメリカよりも若干低い39.54%になった。法人税に関しては、英仏のほうがぐっと低いが)


郵政民営化にしたってそうだ。
国民新党の「田舎の郵便局がなくなる」っていう主張は、確かに都会の低所得・不安定雇用層には響かない。
しかし、本当に都会にさえ住んでいれば、何もマイナスがないのだろうか?

よく言われることだが、郵政民営化は長いこと、日本政府に対するアメリカの年次改革要望書の最重点項目だった。アメリカとしては、郵貯・簡保の350兆円という世界最後の広大な秘境=「鎖国マネー」を、グローバル金融資本の回転の中に組み込みたくて仕方がない。小泉はそこと手を組んで、政権を維持してきた。これは明らかな事実だ。
しかし、仮に民営化後の郵貯・簡保が外資の傘下に入ったとして、ハゲタカファンドに350兆が「盗まれる」わけではない。むしろ彼らは、洗練された金融工学の手法で、より「積極的に」運用し、郵貯・簡保のユーザーに高利回りを提供してくれるだろう。日本国民に、またひとつ有利な金融機関の選択肢が生まれるのです、誰が困るというのだ、それを批判するのは噴飯ものだ・・・

そう、確かにそのとおり。
しかし、よく考えてもらいたいのは、ここからだ。民営化し、なかんずく外資の傘下に入った郵貯・簡保で、抽象的な「日本国民」ではなく、「私」は「僕」は、本当に得をするのかと。

郵便局の簡易保険はもともと、大正3年に政府の社会政策の一環として始まったものである。それ以来、無審査、職業による差別がないのが大きな特徴になっている。
しかし、民営化後の、ましてや外資の傘下に入った後の旧簡保はどうなるだろう? 都会のホワイトカラー層にさまざまな魅力的な商品を提供することの見返りに、当然ながら職業によっては加入できなくなる人が出る。既往症や生活習慣病があれば、さらに門戸は狭まるだろう。
もちろん、職業によって掛金の差もどんどん大きくなる。すっかり定着した外資系保険会社の雄、アメリカンホーム保険では、1級職(ホワイトカラー)と3級職(建築作業員やドライバーなどの現業職)では、掛金の差が2倍ほどにもなる。(数年前のこの会社の自動車保険のCMを覚えているだろうか? 優遇保険の適用条件を一つ一つ読み上げると、ブルーカラー風の人たちや若者が効果音と共にどんどん消え去り、それを残った中年の男女がへらへら笑いながら見ている感じの悪いCM。生保と損保の違いはあれど、基本的にノリは一緒である)

あなたが肉体労働で生計を立てているフリーターだとしたら、この一点を持ってしても、郵政民営化には反対するに十分なはずだ。

貯金にしたって、似たようなもの。
リップルウッドに捨て値で買収された新生銀行が先鞭をつけ、日本の都銀も追随していったように、いま銀行は大口預金者を囲い込むべく、彼らに対して、金利を含むさまざまな優遇措置を拡充している。郵貯だって民営化されたら、小口の預金者は、口座維持費とATMでの手数料がボディブローのように効いてくる。

郵政民営化の小難しい議論に首を突っ込んで「大局的に」判断するのも結構だが、とりあえず自分の生活にプラスなのかマイナスなのかで判断することに、最もプライオリティを置くのが自然なのではないだろうか。

これだけ給与水準と生活が下方圧力に晒されてきたのに、それでもなお、「自分の生活」を二の次にして、「大所高所」のイメージ戦略にのっかっている庶民が多いことに、何と言うか、憲法9条オタクにも負けず劣らずの「平和ボケ」を感じてしまう。


では、都市の若年不安定雇用層は、実際にどこに入れるのがいいか。
構造改革で格差を拡大してきた小泉にNOで民主党? そう単純に考えていいのか?

つづくっ!

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September 06, 2005

自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう I

最近はそれほど忙しくない。
でも、ブログで今回の政治のことは語るまいと思っていた。なぜって、経済政策が焦点の今回の選挙の中で、もともと僕はリフレ派で、構造改革にはあまりポジティブではないけれど、それを文章で主張するだけの確信が未だ持ててなかったから。
だから、この機会に、あまり人様に何かを主張するというイタイことをせず、経済政策を一から勉強しなおそうと思っていた。

しかし、本来はチラシの裏に書くべきことなのかもしれないけど、それでもやはり、ネットの片隅にでもひっそりと書いておかないとあとで後悔するような気がし始めたので、何度かにわたって選挙に向けた自分の考えを書くことにする。

そう考えを変えた由縁は、非常に嫌なものを、いまの政権が目指しているであろう目的地に見てしまったからだ。

僕が以前のホームページを作りはじめたのは、小泉政権の軌跡とほぼ重なっている。
その頃から感じていた「社会が壊れる」という感覚を、このブログを始めた1年前ごろから、徐々に深刻なものとして自覚化できるようになってきた。

自己責任異論 I
「社会が壊れる」について
NHK「日本のこれから・格差社会」について

そして、泥濘のニューオーリンズには、はっきりと「壊れた社会」が像を結んでいた。

車がなくて避難できなかったらほっとかれるような社会に、住みたくない。
月初に届く福祉給付を使い切ってしまったら、月末のハリケーンから逃げ出す資金もなくなるような社会に、住みたくない。
スリランカやニコバルでも起こらなかったような、救援物資をめぐる銃撃戦が起こるような社会に、住みたくない。
略奪することと、略奪から守るためにセキュリティを厳格にすることが合理的な選択となってしまったような社会に、住みたくない。

20年後に関東直下型地震なり東海・東南海連動地震なりが起こったとき、そんな事態に巻き込まれて、「30年前の神戸のときはまだしもいい時代だったなぁ」などとシャレにならない後悔をしたくないのである。


ここのところ経済政策を勉強させてもらっている、ネット上のリフレ派総本山(?)のサイトである、bewaad institute@kasumigasekiに、以前こんなエントリがあった。

ここに取り上げられている障害者自立支援法案っていうのは、要は障碍者という集団の「既得権」を奪う配分ルールのネオリベラル的な変更に他ならないわけだけれど、このエントリーから触発されたことをまとめると、こういうことだ。

小泉政権は、閉塞感を抱える大衆の漠然とした期待感に呼びかけ、改革支持の熱狂の中でまず総論を固めてしまう。
「この国は変わらなければいけない」、と。
4年前そうやって総理になった彼は、その後も天才的な嗅覚で、少しずつ支持率が下がるたびに政治的なイベントを仕掛け、大衆の熱狂を断続的に爆発させてきた。もちろん、今回の解散もその一つである。

(余談だが、実は僕にも、1週間だけ小泉政権発足を慶賀したイタイ記憶がある。2001年の4月、僕はパキスタンのカラチにいて、ウルドゥ語紙の記事を友人に訳してもらって小泉政権誕生を知った。日本を出発する時には橋本再登板で決まりだというムードだった情勢でのこのニュースはやはり、僕のようなヒネクレ者でさえも小躍りさせるような新鮮なインパクトがあった。もっとも、1週間後帰国して閣僚名簿に竹中平蔵の名を見つけ、この政権の本質を直感してすっかり落胆したが)

そして、総論としての大衆的な改革支持を取り付けた上で、特殊法人、道路に代表される公共事業、郵政、社会保障などの各論において抵抗勢力を分断撃破する。
各個の既得権益者は、それぞれそれほど数が多いわけではないから、大多数の利益をむさぼる少数の「抵抗勢力」として簡単にレッテル張りし、それを攻撃して溜飲を下げることができる。特殊法人も、道路公団も、建設事業者も、特定郵便局も、そして障碍者も。

もちろん、そのレッテル張りが「間違ってない」場合も多いかもしれない。「合理的」に判断して、なぜ「痛み」を甘受してもらわなければならないのか、とくとくと説明しなければならない局面も多々生まれるだろう。

しかし問題なのは、「老人」としてであれ、「子ども」としてであれ、「主婦」としてであれ、「労働組合員」としてであれ、「所得税を払わなくて済んでいる低所得者」でとしてであれ、多くの国民は、みなそれぞれが、何らかの形で既得権者であり、その意味では常に、多数に寄生する少数派だということだ。
そこに、改革に賛成するという総論=イデオロギーのもとに、次々に既得権者=少数派が「抵抗勢力」と見なされて各個撃破される。それぞれへの切り捨て作戦のもとでは、各「抵抗勢力」が周囲から孤立させられ、その際には、次の作戦で槍玉に挙げられる別の「抵抗勢力」は、得てして改革を支持する「大衆」の側にいる。

もちろん、それで改革が進めばいいだろう、という考え方もある。自分も、戦術的にはそういう局面があることを否定しない。
しかし、さらに問題なのは、この構図が導く「社会の崩壊」の可能性である。

この構図での「分断統治」と「各個撃破」は、社会の各集団が互いをパイを奪う対象として敵視しあう状態を帰結しかねないからである。
いまは国のレベルの議論しか表面上は見えないが、国政のレベルで行われるパイの奪い合いと、「抵抗勢力」というレッテルの張り合いは、常にローカルなところに基盤をおいている。その殺伐とした感覚が、地域社会を覆い尽くしていったら・・・?

上記エントリによれば、構造改革を支持する財界ではいまや、新しい公共という考え方が出てきているという。
要は、社会保障を縮小せざるを得ないこれからの時代に必要なのは、地域に張り巡らされたソーシャル・キャピタル(社会関係資本)、つまりは人と人との結びつきや信頼感の網の目である、ということである。
(もちろん、逆に言うと、「金は出さない(出せない)」「官に頼るな」の言い訳に、ソーシャル・キャピタルだの、人間力だのっていうスローガンを持ち出して推奨しているわけだが)

それは、まったくもって正しい。
しかし、相手の痛みに共感した真摯な説得も、ギリギリの原則をぶつけ合う激しい議論も尽くすことなしに、順々に「抵抗勢力」とレッテル貼りして大衆の感情を動員するだけで、既得権者を屠ってゆく政治のあり方は、残念ながらソーシャル・キャピタルの蓄積とは正反対に向かいはしないか。

「自助努力」のないシングルマザーを、低所得者を、そして黒人を、槍玉に挙げてきたアメリカ社会が、既に壊れていたということを、他人事と思うべきではない。

つづくっ!

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