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April 05, 2005

前回エントリの改稿

あまり伝わらなかったと思うけど、昨日僕が非常に乱暴に書きなぐった意識は、ここで丁寧に書ききっておられることとかなり近いと思う。それは、ライブドアの株券を買っていた30代のフリーターの話に、この方もやはり注目していることからも、感覚的に近いのではないかな、と感じられる。

『日本の、これから』「格差社会」
『日本の、これから』補足

とてもよくまとまっている記事だと思うのであまり屋上屋を架す気もしないが、上記記事に使われていた用語を使って、前回のエントリを書き直してみたいと思う。

「多くの人が自分の体験に近いところの情報しか頭に入っておらず、食い違った現実認識を持ったまま」、「競馬場でたまたま勝ってる客と負けてる客が言い合ってる感じ」というのは、本当にその通りだったとしかいいようがない。
堀江さんたちは、努力という言葉を好んで使うが、現在の成功者の軌跡が、60~80年代ごろに比べて格段に投機的・射幸的なものになっていることからも、この競馬場の比喩は適切だと思う(大正・昭和初期や戦後の混乱期における資本主義は、おそらく現在以上に投機的・射幸的なものであったような印象があるが、それはまた別の話にしたい)。

その競馬場で勝った側にも負けた側にも、「自己の生の体験と他人の生の体験とが入れ替わっていたかもしれないという可能性を、想像する力の欠如」があるというのはその通り。「弱者切捨て」と「希望の喪失」とは、同じ想像力の欠如という現象のコインの両面だからね。
しかし、地域コミュニティや血縁集団、そして「カイシャ」といった中間集団が崩壊してしまった現状では、競馬場で勝った人の自発的な「想像力」に頼るのは、いささか心もとないと思う。その部分を教育的なプログラムで補っていけたら、それはそれで結構なことだけれど、とても難しいだろう。

基本的には、しっかりしたマクロなデータを手に、「すみません、このままではワシらオケラは首括るしかないんで勘弁してください」と集団で主張して、レースのオッズを何とか下げてもらうしかないだろうと僕は思う。(あと、胴元のテラ銭を下げる交渉をする部分では、勝った人たちと一時的に共闘する必要もあるだろうね)

ただ、どうして現状そういう動きが発展していかないかというと、それはやはり理由があって、端的に言うと、既存のオケラ集団の代表である労働組合に、フリーター層は乗れない、という話である。
その理由は、上山和樹さんが粘っこく考察しているし、上記ブログの別のエントリでは、労組の「全員正社員になれば解決」主義には、自分たちの既得権にしがみつく態度が透けて見られちゃうし、せいぜい「システムのかわいそうな犠牲者」としかフリーターを捉えられない彼らには、フリーターの主体性が結局全然わからないから擦れ違いになる、と的確に整理されている。
(正直、番組内でこの辺に関連する部分を突かれた斉藤貴男は、旗色が悪かった)

ただし、引用した2つの記事でもはっきりと言われているように、既存の集合行動団体に乗れないからといって、集合的に利害を訴える動きそのものの重要性は変わらないわけで、既存の労組を変えていくなり、フリーター層の利害を代弁する組織をあらためて作っていくなりという方向性は、絶対に必要となってくる。

さらに言うと、早く何とかする補完的なシステムを作っておかないと、残された時間はそう長くのではないか、という危機意識が少しある。
非常に乱暴に言うと、「必ずどの馬が勝つかわかる競馬」になって、なおかつ「オケラとまったく触れ合わなくて済む指定席が整備された競馬場」になってしまったら、マクロデータを突きつけてオケラが困窮を理知的に訴えても、あるいは泣き落としをはかっても、「で、それが何か?」になってしまう可能性が高いからだ。

それはつまり、専門職に要求される教育投資の高騰と文化資本を含む家庭内リソースの偏在が極大化して、階層再生産がはなはだしく固定化し、なおかつ、Gated Communityのような形で生活空間の上でも、社会階層の異なる人々が物理的に隔離されるようになった状況である。
上に引用したブログでは、いま日本社会では人々の「島宇宙化」が進んで生活環境の異なる他人への共感が断ち切られている、とする東浩紀の話が引かれていて、まさにその通りだと思うが、現在アメリカで進行しているような事態は、そういう既存の「島宇宙」みたいなものが、経済的にも空間的にも担保を得て、かなりしっかりと固定化されるような世界だと考えていいだろう。つまり、「勝った自分」と「負けた彼ら」が入れ替わる可能性を想像する必要がなく、現実に何の接触もないので何ら心も痛まない、というような世界だ。

もちろん、カベは単純に「こっち」と「あっち」を二分しているわけではなく、何層かに入り組みながら引かれているので、個々人のリアリティとしては、今いる壁の外に落ちないように必死になったりもするだろうが、少なくとも一番外側に引かれたカベの外の住人のことは、もはやGateの中と同一の社会を構成しているものとは見なされなくなる。
そのため、社会のunityを前提におく各種の社会保障制度や福祉の枠組みに彼らを包含する=所得の再分配という形でオッズの引き下げをを行う謂われはなくなるわけだ。(そのとき社会保障制度は、より各自のコスト負担→リターンを重視した、民間の生保や年金商品に近いものになるだろう)

まあ、大げさな想定だろうという声も聞こえてくるが、そうなってしまってからでは、本当に暴力がもっともコストのかからない手段になりかねない。
斉藤貴男が、「19世紀の資本主義」という言葉を何度か使っていたのは、そういう含意だと思う。

といって、早急に打ち立てるべき新たな集合行動の枠組みに、何か決定打的な像を描けているわけでもない。
ただ、集合行動の枠組みを作る前段階として、少なくとも、資本主義社会のリスクをバッファーするある種の繋がりの枠組みを、ある種の緩やかコミュニタリアン的なビジョンに基づいて作ることから始めなければいけないというのは、わかる。

「夫らしく妻らしくなんて役割演技はたくさんだ」「親の介護なんかしたくない」「子どもの面倒なんかみたくない」「隣の家とのつきあいなんて鬱陶しい」「会社の同僚の顔なんか終業後に見たくない」「オレはやりたいようにやる」「あたしの人生なんだからほっといてよ」…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。 誰を恨んでも始まらない。

と、相変わらず極めてクリアにリスク社会の成り立ちを喝破する内田樹さんも、やはり似たようなことを考えているのだろうか。

いま、半年前に書いたエントリのコメント欄が俄かに盛り上がっているが、実は郊外ファミレス論は、この辺の話とばっちり繋がっているのではないかと、僕自身は考えていたりして。

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Comments

さらにつけたし。
(この辺の問題は一度書くと、派生する問題系にいくらでも広がって終わりがないね。)

masa-nさんがこんなことを書いていた。
http://members.at.infoseek.co.jp/masa_n/diary.htm
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僕にとっての「格差社会」の本質的な問題は、能力主義が蔓延った末に、まあそれなりに頑張っていれば大過なく家族を持って一生を終えられることができなくなるほどに社会の底辺の底が抜けることである。逆に、その底辺がそこそこの大過ない人生を送るに値していれば、ホリエモンがどんなに暴れて稼ごうが、それは大した問題ではないのである。
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まったく同意。

以前のちょっと話題になった『これはさすがに驚いた』というエントリで、「年収1000万円ある連中が、「1500万円よこせ」と怒鳴ることも、1500万円取るために粉骨砕身「自己投資」する感覚も、まったくもってわからない」が、「300万円台の年収が200万円台に削られてゆくことには抵抗したい。」と書いたが、まさにそういうこと。
でも現実にはもっともっと厳しくて、「サー残月100時間で年収300の正社員」か「適正な労働時間の年収100チョイの派遣」かどちらか選べみたいな、究極の選択を突きつけられている層がウン百万オーダーでいるわけで、底抜け状況は行くところまで行っている感がある。何でこんなに日本は貧しくなっちゃったのかと目を塞ぎたくもなるが、この底抜けを何とかしてくだせぇ、と「(たまたま)競馬に勝った人」に訴えていくことが急務になっている。

その後僕は、そのための抵抗の戦術として、株式市場に打って出てみること、つまり既存ゲームの土俵の上に乗っかって、ゲームのルールに新たな要素を付け加えることを提唱したりもしたが、その戦術の限定性を考えると、やはりある種の集合行動で「底抜け状況」に抵抗していくのが、王道だと思う。それが可能ならば、の話で、あまり楽観的ではないけれども、模索しなければいけないんだと思う。

同時に、300万前後で大過なく一生を終えるライフスタイルのアナウンスというのも大変重要な話で、その中には、山田昌弘さんのいう「過剰な期待のクールダウン」のようなものも含まれてくるだろうが、その辺はまた別の話。
ただし、それにしても、教育費の高騰を抑えなければ前提が成りたたない。

また、現行システムで高等教育の教育費の高騰を抑えるというのは、大学業界の外注化やら何やらに直結しそうな話で、それは自分の立場を考えるとポジショントーク的には反対に回ってしまうやも、という難しさもある。実際にあと数年したら、志願者難に苦しむFランク私大が、「年間授業料30万!」とか打ち出して志願者を集めるバクチに出るのではないかしら。それに、どう向き合うべきか。
先日の番組でも、斉藤貴男が最後の一言で、「どんどん厳しくなっていったら、自分と家族の生活を守るために僕も何をするかわかりませんが、それでも、最低限他人の生活を破壊しないで生きていきたいです」と言っていたことが、ここで突き刺さる。
ともあれ、この辺もまた別の話で。

Posted by: yas-igarashi | April 05, 2005 at 05:05 PM

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