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February 26, 2005

「社会的な責任」について I

中越地震やインド洋津波に対する反応を見るにつけ、ここ数年、ドネーションとか義援金とかいうことに対する日本人の意識が、急速に変わってきているように思う。

寄付や義援金といったものが「偽善」であるというような、そういう感覚が、急速に払拭されてきたのだろうか。

それは、シンプルにいいことだと思う。
もちろん、押し付けがましく過度に自己陶酔的な「ボランティア」の害毒はあるにはあるが、個人による寄付や義援金といったもの一般を、「偽善」といって敬して遠ざけるような感覚は、僕にはよくわからない。
そういうことを「偽善」と呼ぶ人は、「どうせ自分の人生を投げ打ってまではしないくせに」「ただの一時的なきまぐれ行為じゃないか」とでも言うのだろうが、善行というのは、すべからくそういう性質があるのではないだろうか。そういう意味では、ペ・ヨンジュンの3000万円から、ヒンドゥ教徒の1ルピーのバクシーシまで、基本的には同じことであるし、そんな議論をしてもまったく意味がないと思う。

ただ、「社会的責任」を果たすための企業の行為となると、もう少し事情は複雑だと思う。
(殊更に逃げを打つつもりでもないが、僕は経営や会計などにはまったくの素人。以下の話にも、いい加減な定義で使っている言葉がたくさんあると思うが、そこは笑って生温かく見守っていただければ幸い)

現代社会の中で、特にBtoCの企業が「社会貢献活動」をすることは、企業イメージとブランド力を高める重要な手段となっているからだ。
(まあ、ある意味、ペ・ヨンジュンのような人の「社会貢献活動」には似た意味合いがあるか)

もちろん、どんな目的であれ、利潤の一部を山古志村やバンダアチェに送ることは、それ自体はいいことだ。

しかし、である。
ナイキがインド洋大津波に寄せた1万ドルの義援金は、ドミニカ人を法廷最低賃金の3分の1の値段で働かせるスウェット・ショップで作ったキャップやウェアを世界中に売って蓄積した膨大な利潤の一部であると知ってなお、そう手放しに褒められるだろうか。
ナイキがグローバル・イシューの解決に対して積極的な企業だと見なせるだろうか。

企業の第一義的な存在意義は、製品やサービスを生産して、消費者に売って得た利潤で、企業価値を高め、利益を出資者=株主に還元することだ。
企業の社会的意義はどこにあるかと言えば、まずはその顧客のニーズを満たすという部分。そして近年では、それだけでなく、蓄積した利潤の一部を、企業の経済活動外の事象に、直接的に何らかの貢献をすることが期待されるようになってきている。そこに、こうした義援金がブランドイメージのアップにつながる契機があるわけだ。

それはいい風潮には違いない。

しかしその前に、ナイキのような企業を見ると、大事なことが忘れられている気がする。
企業の経済活動内部での、もっとも足元の社会的責任である。

経営の視点からすれば、固定費と見なすにせよ、変動費と見なすにせよ、企業会計内部の費目の数字の一つでしか雇用はないわけだが、現実にはくらくらするほど重く、多様な従業員の人生の集合体である。言うまでもなく、企業の内部それ自体が社会だ。

まず最初になすべき社会的貢献は、企業にとってもっとも内側の社会に対してなすべきではないのだろうか。

コイズミ・タケナカの目指すフレキシブルでダイナミックな資本主義では、ホリエモンのような派手なニュースが世間の耳目を集める一方で、こういう会社がどんどん増えてゆく。
ビックカメラが中越地方に義援金を送ったかどうかは寡聞にして知らないが、もししていたのであれば、そういうことは残業代の未払いを清算した上でやってくれ、と強く言いたい。

人件費、雇用だけの問題ではない。
(ここではこの問題を、「会社は株主のものか、それとも従業員のものか」という言い古された問題、つまり労働分配率の問題だけには矮小化したくない。もちろんその問題も言い古されてはいても、いまこそ正面から問わなければならないことなのだが、それはまた次の機会に)

下請けや外注先との契約関係、出店地域の同業他社に対する態度、そして環境基準などなど。
企業がその経済活動内部で相対する社会、そもそも自らが存続するために必要な社会環境というものは、当然ながら、最終的な顧客との関係以外にも、いくらでもある。
そうした企業が経済活動をする上で必然的にかかわりをもつ「社会」との間に、どのような関係を築くのか、そこにこそ企業の真の社会的貢献の意識が問われるのではないだろうか。

人件費も含め、そういった経済活動内部での社会的貢献の意識を蔑ろにして、より見えやすく、かつ企業のイメージアップに直結しやすい寄付を優先させるのだとしたら、その企業の社会貢献というお題目に対する態度には、大きな疑問を感じるということである。

もう一度寄付の話に戻る。
中越地震の時には、多くの企業が義援金を送った。それはいい。

しかし、結果的に及ぼす効果は同じようなものだったにしても、そうした利潤の一部を「ほどこす」行動よりも、ビジネスの内部で、企業会計の内部で貢献しようとするほうが、社会的貢献のあり方としては本道のような気がする。

(イヤらしい話になってしまうが)たとえば僕は、中越地震の時には、数千円単位の義援金を、「山古志村の雪景色」の壁紙を購入すると言う方法で、ニフティ経由で寄せることを選択した。
それは、ニフティが打ち出した「中越地方の会員には、2ヶ月間接続料タダ」という発表が、企業がなすべき社会貢献としては、利潤の一部を義援金として寄せるやり方よりも一段格上だと思ったからだ。些細なことと言えばそれまでだが、企業のビジネス内部でこういう貢献をすることを打ち出した、というのは評価するべきことだと考える。
このときには、各コンビニはおにぎりを送り、CoCo壱番屋はカレーを振舞ったが、それらの会計上の扱いは、各企業内部でどのようなものだったか、結構興味がある。細かい話のように思われるかもしれないが。

ダヴォス会議という会議のいやらしさについては、masa-nさんも時々触れていて、僕自身もう少し日本のメディアはこれに注目すべきだろうなと思っているのだが、それはさておき、初日にシラクがいいこと言った

国際金融取引や、国際便の航空券に、エイズ対策を目的とした「国際連帯税」を課そうと提案したのである。

この記事にはないが、シラクははっきりと、「こうしたグローバルな不平等が産むイシューに対する負担は、グローバル化によって利得を得る者が負担するべきだ」と演説していた。・

おそらく実現はしないだろうが、さすがにグローバル化が生み出す新たな格差ということの本質を踏まえた提案だと思う。
日本では、シャロン・ストーンがフロアからタンザニアへの募金を呼びかけたことばかりが、「立派なセレブな話題」として注目されていたが、グローバルな活動から利得を得る者(企業も個人も含む。もちろん移民も)に、その経済活動内部の固定経費としてグローバル・イシューへの取り組みを義務付けたこのシラクの提案は、やはりシャロンの呼びかけより数段重要なものだったと思う。もちろんこのシャロンの行動は文句なくリスペクトするけれども。
(余談だけど、ダボス会議に呼ばれる「文化メンバー」ってこういう面々になるんだね。もちろんUNHCRの親善大使を務めるアンジェリーナ・ジョリーが不適格だとは言わないけど、ボビー・ギレスピーやレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンやAsian Dub Foundationはもちろん呼ばれないんだよな。レッチリでギリギリなんだろうか)

まあでも、とりあえず一番わかりやすく切実なことは、やっぱり雇用の領域になっちゃうね。

とりあえずナイキは、100万ドル寄付する前に、ドミニカ人の時給を1セントずつでも上げよ、と。
日本企業は、中越地震に寄付したりメセナ活動をする前に、サービス残業をやめよ、と。

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