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February 28, 2005

いったん墜ち出すとあっという間に墜ちるところまで墜ちるのね

経費削減で選手に毒?恐怖の計画発覚 - nikkansports.com > サッカーニュース

(((((((ι゚д゚;)アワワワ

さすがにカントナを擁した優勝した頃は見ていないけど、つい5年前には、異様なほどの盛り上がりのUEFA杯vsローマ戦をエランド・ロード・スタジアムまで見に行ったのは、いい思い出。
その翌年には、キューウェルにアラン・スミスにファーディナンドまで獲得して、CLでもベスト4ですよ。

それが今では、2部でまかり間違ったら降格争いですよ。
おまけにこのニュース。

一寸先は闇とはまさにこのことですね。
怖いものです。気をつけましょう→自分。

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「社会的な責任」について II

前回のエントリを、もう少し、別方向に深めてみたい。前回のようなレベルでの「企業の社会的な貢献」を巡る議論では、いずれにしても現時点では企業による経済活動の「ボタンタリーな」余技でしかない行動について、どうこう言ってるという以上のものにはなりにくいからね。
株主主権か従業員主権か、というそこで堂堂巡りしちゃうととにかく不毛なんだけど、それでもやっぱり避けて通ることは出来ない論点を視野に入れつつ。

こう書くと、古くからの読者の方には、どうせアメリカ流株主主権の資本主義へと変化していく趨勢にひとくさり憂えてホリエモンに当てこすりたいだけでしょ、と端から展開を見透かされそうで、まあそれもまったくないわけではないんだけど、さすがにそう単純でないことを書いてみたい。
そもそも、今回のケースに関していうと、買収後に平均年収1500万円超のフジテレビの給与カットに乗り出したところで、あらゆる意味でそれは自然だし、直接的にはそうした議論にちょっと馴染まないでしょ?


結論からまず言っちゃうと、今後庶民は「資産運用のために」という以上に、「生活防衛のために」株式市場に手を出すしかないんじゃね?って話。

株式会社は、株主様のものだ。残念ながら(?)、この原則は絶対に崩れない。
これはいい悪いの問題ではなくて、事実だ。その原則がこの国では、90年代までの亜閉鎖経済下の「社会主義的な」システムによって少しばかり歪められてきただけだ。

労働分配率(平たく言えば、企業が生み出した付加価値を、資本=株主側と分け合う中で、労働=従業員側にどれだけ分配されたか、という指標である)が、景気変動とどのように関連があるか、考えたことはあるだろうか?

「景気が悪くなって企業収益が悪化しても、人件費はそう簡単に削れないから、労働分配率は上がるんじゃないかなぁ」

そう考えたあなた。あなたは「社会主義的」システムにズブズブに漬かった日本人です(笑)
いまブログ界で話題のこの辺のテストをしたら、アングロサクソンに晴れて左翼認定されることでしょう。

アメリカでは、不況期でも、いや不況期だからこそ、株主への配当をギリギリまで保とうとするので、労働分配率は、全体の収益が下落した分やや下降するのです。
つまり、日本では景気変動と労働分配率が強い逆相関なのに対して、アメリカでは順相関。

もちろん、アメリカの極度の株主優先主義--参考にさせてもらったこのサイトの表現を使えば、不況期に労働者がオーバーリスクをとる社会--も、相当曲がり角に来ている。
日経のコラムでも触れられている通り、アメリカの中でも大型企業破綻を契機に、株価市場主義への懐疑の声を高まっている。

しかしそれはもちろん、日本の文脈では一周先の話。
2000年代に入って、労働分配率が見事に下落しているのは、従来の好況→労働分配率下落というメカニズム以上の、本質的な経営側のシフトがあると考えざるを得ない。

ようやく株主に向き始めた企業の顔を、労働者を含めた「社会」に再度振り向かせるために、これまでのようなぬるい「社会主義的なシステム」--規制や株式持ち合い--という壮大な非効率を続けることは、もはやできない。
なぜなら、株価が低迷し時価総額がぐっとお安いのに、キラキラの無借金経営で保有資産は高い日本の会社なんて、海の向うの肉食獣たちにとっては、この上なくおいしいご馳走でしかないからだ。
いざM&Aとなったら、今回のフジテレビのような掟破りも多発するだろうけど、そうした事態を避けるために企業がなすべきことは基本的に、増配や自社株買い、そして「大胆なリストラ策」の発表などを通して、株価を高値に保とうと頑張るしかない。

それがやだって言うのなら、一つの手は、鎖国することだ。

そりゃあ、儂とて鎖国したほうがいいんじゃね?と思うときはあるよ。
3週間前に、クソみたいな労働条件で酷使される現代のクーリーたちから完璧に隔絶された熱帯の小島の摩天楼群を、白人の投資家たちとそのおこぼれを狙う中国系やインド系が我が物顔に闊歩してるのを見せつけられた時には、国に帰ったら攘夷を敢行して夷狄を追い払うしかないって真剣に思い詰めましたよ(←お前は上海の高杉晋作か)

でもそんなの、さすがにブログにも書けねぇ世迷言だって。(←書いてるし)
鎖国が現実的でない以上は、企業は株主の顔だけを見るように、これからますますなっていくだろう。というか、ならざるを得ない。

だとするならば、自分たちも株主になっちゃえばいいじゃん、っていう至極単純な発想。
株価は次第に上がっていくのに、実質賃下げと生活ギリギリの給料も危うい不安定労働者が増えてゆくという、「国破れて企業あり」みたいな「ジョブロス・リカバリー」が深刻化していく中、少しでもマシな暮らしをするには、なけなしの預金を証券会社に移して株主になってしまうしかないんじゃないか、ということ。
結局それが、タケナカが始終言っていることに乗っちゃった行動だっていうのは少々悔しいかもしれないけど、労働分配率の下落を無意味にノスタル気分で憂えているよりは、株主様として機嫌とってもらって、増加する配当を分配してもらった方が、ぐっとポジティブというもの。

それに、近々ハイパーインフレが起こる、なんて噂話を聞くにつけ、預金で持っているより株にしといたほうが安心だしね。


ここまではまあ、巷のファイナンシャルプランナーと称する人たちと同じことを言っているに過ぎないわけだが、さらにもうひとつ、庶民こそ株式投資をするべきだと考えるもうひとつの重要な理由がある。
前フリが実に長かったが、ここでようやく企業の「社会的責任」の話と繋がる。

だがしかし。ふぅ。疲れました。
ここまででずいぶん長くなっちゃいましたね。

今日のところは、あまりに当たり前すぎて全然つまんない話ですが、これ以上長いと読み手も書き手も疲れるので、続きは後日にします。

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February 27, 2005

金子勝の見解

「社会的責任について II」を用意していたのだけれど、その前にこれを。

米国とはまったく違う日本のITベンチャー企業 - livedoor ニュース

ライブドアの一件に関する彼の見解が聞きたかったのだが、こっちで来たか。
最近の彼は、「世代間対立」を強調する方向に突出している感があるので、意外ではないけれど、以前のエントリで金子勝の主張を拡張した趣旨から見ると、まったく逆になる。

前半部は完全に同意。

その上でなんだけど、

彼の魅力はただ一つ。プロ野球界にせよ、メディア界にせよ、日本社会の腐った部分を狙い撃ちする、彼の「社会性」にある。ちょうど「株式の持ち合い解消」など過渡期にあるなかで、高齢経営者たちの談合体質に風穴を開けようとする彼のやり方は非常に巧みだ。

というのはどうかな。
堀江のここ1年間の動きが結果的に「社会性」を持っていることは僕もわかるし、結果論としてプラスにはなっているけど、彼のもともとの動機が「社会性」になかったことぐらい、金子さんはわかっているはずだよね?

その結果としての「社会性」を賭金に、

そして、年功賃金も長期雇用も老後を保障する年金もない、ただ食い逃げされていく若い世代は、彼に期待するしかないのだ。感情的な堀江バッシングに乗っかるのだけはやめにしておこう。裏で笑っているのは、逃げ切りを図る腐った連中なのだから。

と断言するのはちと危険なのでは?

彼のやってきたことで積極的に支持できるのはこの部分しかない、と僕も考えてきたことをうまく整理はしているけれど、この場合は、そう安易に「敵の敵は味方」と煽るべきではないと思うな。
だって堀江は明らかに、年寄りであれ若者であれ、周囲の連中を食い逃げしようと思ってるよ(笑)

それこそ、堀江をグルのように持ち上げる若い連中を裏でせせら笑ってるのは、来年から三角合併が解禁される外資の面々じゃないのかな。

要は、財と権力をまともに分配しようという意思を持っているのは誰なのか、を見極めることが必要だということ。

ちょっと乱暴にまとめると。
堀江は確かに世代間では分け前を分捕ろうと四苦八苦しているけれど、世代内では六本木ヒルズに溜め込んだ財を分配する気は一切ない。
旧来のエスタブリッシュメントは、明らかに世代間ではむちゃくちゃになってるけど、世代内では、おいしいところは談合でがっちり独占しながらも、それなりに庶民を生かさず殺さずする「社会主義的」とも揶揄されるシステムを作ってきた(そのシステムが低成長期に機能しなくなっているのは事実だが、その事態の根本が「日本的経営」そのものに内在する問題ではない、ということはむしろ最近の分析の主流なのでは?)。

さて、それではどうするか、と。話はそこからだろう。

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February 26, 2005

「社会的な責任」について I

中越地震やインド洋津波に対する反応を見るにつけ、ここ数年、ドネーションとか義援金とかいうことに対する日本人の意識が、急速に変わってきているように思う。

寄付や義援金といったものが「偽善」であるというような、そういう感覚が、急速に払拭されてきたのだろうか。

それは、シンプルにいいことだと思う。
もちろん、押し付けがましく過度に自己陶酔的な「ボランティア」の害毒はあるにはあるが、個人による寄付や義援金といったもの一般を、「偽善」といって敬して遠ざけるような感覚は、僕にはよくわからない。
そういうことを「偽善」と呼ぶ人は、「どうせ自分の人生を投げ打ってまではしないくせに」「ただの一時的なきまぐれ行為じゃないか」とでも言うのだろうが、善行というのは、すべからくそういう性質があるのではないだろうか。そういう意味では、ペ・ヨンジュンの3000万円から、ヒンドゥ教徒の1ルピーのバクシーシまで、基本的には同じことであるし、そんな議論をしてもまったく意味がないと思う。

ただ、「社会的責任」を果たすための企業の行為となると、もう少し事情は複雑だと思う。
(殊更に逃げを打つつもりでもないが、僕は経営や会計などにはまったくの素人。以下の話にも、いい加減な定義で使っている言葉がたくさんあると思うが、そこは笑って生温かく見守っていただければ幸い)

現代社会の中で、特にBtoCの企業が「社会貢献活動」をすることは、企業イメージとブランド力を高める重要な手段となっているからだ。
(まあ、ある意味、ペ・ヨンジュンのような人の「社会貢献活動」には似た意味合いがあるか)

もちろん、どんな目的であれ、利潤の一部を山古志村やバンダアチェに送ることは、それ自体はいいことだ。

しかし、である。
ナイキがインド洋大津波に寄せた1万ドルの義援金は、ドミニカ人を法廷最低賃金の3分の1の値段で働かせるスウェット・ショップで作ったキャップやウェアを世界中に売って蓄積した膨大な利潤の一部であると知ってなお、そう手放しに褒められるだろうか。
ナイキがグローバル・イシューの解決に対して積極的な企業だと見なせるだろうか。

企業の第一義的な存在意義は、製品やサービスを生産して、消費者に売って得た利潤で、企業価値を高め、利益を出資者=株主に還元することだ。
企業の社会的意義はどこにあるかと言えば、まずはその顧客のニーズを満たすという部分。そして近年では、それだけでなく、蓄積した利潤の一部を、企業の経済活動外の事象に、直接的に何らかの貢献をすることが期待されるようになってきている。そこに、こうした義援金がブランドイメージのアップにつながる契機があるわけだ。

それはいい風潮には違いない。

しかしその前に、ナイキのような企業を見ると、大事なことが忘れられている気がする。
企業の経済活動内部での、もっとも足元の社会的責任である。

経営の視点からすれば、固定費と見なすにせよ、変動費と見なすにせよ、企業会計内部の費目の数字の一つでしか雇用はないわけだが、現実にはくらくらするほど重く、多様な従業員の人生の集合体である。言うまでもなく、企業の内部それ自体が社会だ。

まず最初になすべき社会的貢献は、企業にとってもっとも内側の社会に対してなすべきではないのだろうか。

コイズミ・タケナカの目指すフレキシブルでダイナミックな資本主義では、ホリエモンのような派手なニュースが世間の耳目を集める一方で、こういう会社がどんどん増えてゆく。
ビックカメラが中越地方に義援金を送ったかどうかは寡聞にして知らないが、もししていたのであれば、そういうことは残業代の未払いを清算した上でやってくれ、と強く言いたい。

人件費、雇用だけの問題ではない。
(ここではこの問題を、「会社は株主のものか、それとも従業員のものか」という言い古された問題、つまり労働分配率の問題だけには矮小化したくない。もちろんその問題も言い古されてはいても、いまこそ正面から問わなければならないことなのだが、それはまた次の機会に)

下請けや外注先との契約関係、出店地域の同業他社に対する態度、そして環境基準などなど。
企業がその経済活動内部で相対する社会、そもそも自らが存続するために必要な社会環境というものは、当然ながら、最終的な顧客との関係以外にも、いくらでもある。
そうした企業が経済活動をする上で必然的にかかわりをもつ「社会」との間に、どのような関係を築くのか、そこにこそ企業の真の社会的貢献の意識が問われるのではないだろうか。

人件費も含め、そういった経済活動内部での社会的貢献の意識を蔑ろにして、より見えやすく、かつ企業のイメージアップに直結しやすい寄付を優先させるのだとしたら、その企業の社会貢献というお題目に対する態度には、大きな疑問を感じるということである。

もう一度寄付の話に戻る。
中越地震の時には、多くの企業が義援金を送った。それはいい。

しかし、結果的に及ぼす効果は同じようなものだったにしても、そうした利潤の一部を「ほどこす」行動よりも、ビジネスの内部で、企業会計の内部で貢献しようとするほうが、社会的貢献のあり方としては本道のような気がする。

(イヤらしい話になってしまうが)たとえば僕は、中越地震の時には、数千円単位の義援金を、「山古志村の雪景色」の壁紙を購入すると言う方法で、ニフティ経由で寄せることを選択した。
それは、ニフティが打ち出した「中越地方の会員には、2ヶ月間接続料タダ」という発表が、企業がなすべき社会貢献としては、利潤の一部を義援金として寄せるやり方よりも一段格上だと思ったからだ。些細なことと言えばそれまでだが、企業のビジネス内部でこういう貢献をすることを打ち出した、というのは評価するべきことだと考える。
このときには、各コンビニはおにぎりを送り、CoCo壱番屋はカレーを振舞ったが、それらの会計上の扱いは、各企業内部でどのようなものだったか、結構興味がある。細かい話のように思われるかもしれないが。

ダヴォス会議という会議のいやらしさについては、masa-nさんも時々触れていて、僕自身もう少し日本のメディアはこれに注目すべきだろうなと思っているのだが、それはさておき、初日にシラクがいいこと言った

国際金融取引や、国際便の航空券に、エイズ対策を目的とした「国際連帯税」を課そうと提案したのである。

この記事にはないが、シラクははっきりと、「こうしたグローバルな不平等が産むイシューに対する負担は、グローバル化によって利得を得る者が負担するべきだ」と演説していた。・

おそらく実現はしないだろうが、さすがにグローバル化が生み出す新たな格差ということの本質を踏まえた提案だと思う。
日本では、シャロン・ストーンがフロアからタンザニアへの募金を呼びかけたことばかりが、「立派なセレブな話題」として注目されていたが、グローバルな活動から利得を得る者(企業も個人も含む。もちろん移民も)に、その経済活動内部の固定経費としてグローバル・イシューへの取り組みを義務付けたこのシラクの提案は、やはりシャロンの呼びかけより数段重要なものだったと思う。もちろんこのシャロンの行動は文句なくリスペクトするけれども。
(余談だけど、ダボス会議に呼ばれる「文化メンバー」ってこういう面々になるんだね。もちろんUNHCRの親善大使を務めるアンジェリーナ・ジョリーが不適格だとは言わないけど、ボビー・ギレスピーやレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンやAsian Dub Foundationはもちろん呼ばれないんだよな。レッチリでギリギリなんだろうか)

まあでも、とりあえず一番わかりやすく切実なことは、やっぱり雇用の領域になっちゃうね。

とりあえずナイキは、100万ドル寄付する前に、ドミニカ人の時給を1セントずつでも上げよ、と。
日本企業は、中越地震に寄付したりメセナ活動をする前に、サービス残業をやめよ、と。

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February 22, 2005

走り書き

この前の週末も、ホリエモンはかなり楽しませてくれましたね。
サンデー・プロジェクトでは、かなりヤキが回っているようにも見えたが・・・

「勝敗」ということとは別に、森だのなんだのがこぞって「苦言」を呈したのは、ここに来て完全にマイナスにはなっているね。
もちろん整備しておく必要はあるのだが、タイミング的に泥縄式にしか見えない放送法の外資規制強化みたいなことも、あまり印象はないやね。
おまけに、ここまで単細胞なこと言われるとなぁ。呆れるしかないなぁ。

自民党:党内で「ライブドア批判」、郵政論戦に飛び火

「外資」に買収されることが一概に悪いんじゃないよ(ここでは、前回書いたようなメディアという領域に発生する独自の問題は捨象して--どうせそこに及んでいる議論なんてほとんどないからね--、M&A一般の議論として考えています。)
ライブドアのような、従業員の平均勤続年数1・3年で、社長が吸収した社員に「お前らは奴隷だ」なんて言い放つトンデモ企業が、企業とブランド名をどかすか買い漁っていることが国籍に関係なくヤバい展開だ、っていうことに、どうして議論が集中しないかな。

残念ながら、M&Aを積極的に推進してくるようないま勢いのある欧米企業には、そういう「フレキシブルな」企業が多いから、外資買収=ハゲタカみたいな印象がすっと繋がってしまうと思うけど、本質は国籍ではないよ。

企業の「社会責任」について思ったことをちょっと書こうと思ってるから、その助走までに。

参考までに、結構知られてるかもしれないけど、こんなところに人たちが1・3年後にどんなことを口走っちゃっているのかを想像するのも、結構楽しいかも。

目指せ!ライブドア全社員紹介blog

も一つ、興味深い記事をクリッピング。

「中国一」リッチな村・華西村 年収、平均の30倍

僕は中国関係にはあまりアンテナを張ってないから今まで知らなかったけど、この村の話は結構日本でも有名らしいね。

かなり面白い、現代の寓話だと思う。

こういう話を読むと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』という小説をいつも思い出す。
「見せかけの完結した素晴らしい世界だけを見るな、影のことを、一角獣のことを、切り捨てられる側のことを、常に考えるんだ」
もちろん、僕ら日本人も「世界の終わり」に住んでいるんだけどね。

とはいえこのモデルは、国内の盲流の支えがなくとも、ある程度まではイケてたわけで、そのモデルがどの程度まで応用可能なのか、ということには興味がある。

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February 18, 2005

ホリエモンという問題、再び

例の事件の成り行きは、テレビや新聞以上に、ネット上は当然としても、雑誌の世界で大きな反響を呼んでいるようだ。
もちろん、仔細にチェックしたわけではないが、電車の中吊り広告を見るだけでも、ほとんどの主要総合週刊紙がこの事件を大きく取り上げているようである。

中吊り見出しの論調は、ほとんどが否定的・批判的なトーン。去年の近鉄~幻のフェニックスのときは、賛否相半ばしていたことに比べると、相当に否定的に針が触れているのは間違いない。
ブログなんかで一番多い論調は、野球の件をきっかけにアレだけ持ち上げていたフジがこんなことになっちゃって自業自得、赤っ恥、というようなもののようだ。

そうした中で、僕の知る限り唯一諸手を上げて堀江支持を打ち出していたのが週刊プレイボーイだったことに、ちょっと複雑な気持ち。「ついでに週プレまで買っちゃってください」ときた。

週刊SPA!よりもまた一段、年齢も、所得も、偏差値も低い読者層を狙っている週刊プレイボーイは、現在の紙媒体の世界では結構独特のポジションを取っている。
手っ取り早くインリン様(cf.M字ビタ~ン!!)のグラビアで部数を稼ぎつつも、ハタチ前後から20代にかけての都市に住んでいるフリーター、といったあたりの目線を擬装したような文章で、ナベツネにも、ブッシュにも、コイズミにも、単純だがそれなりに力強い論理で噛みついてきたのがこの雑誌だ。

記事そのものを読んでいないから何とも言いようがないが、「現状=オヤジへの不満」という一点で、堀江支持を打ち出して、従来の読者層に売れるという読みがあるのだとしたら(そしてそれが結構アタリなのだとしたら)、やっぱり2000年代の日本社会はなかなかシビアだ。
一年半ぐらい前の総選挙の折に、「若者たちの中にミーイズムと隣り合わせのリベラリズムが浸透している」という金子勝氏の分析を紹介したことがあるけれど、その分析の的確さを象徴するエピソードではないだろうか。


まあその問題はおいといて、今回の事件に関しては、1)ライブドアのような輩が敵対的買収を次々仕掛ける時代になっちまったのはOKなんですか、という論点と、2)規制でがんじがらめに守られ/縛られた既存メディア状況とホリエモンが構想するようなネット主導の「自由」なメディア状況はどっちがマシか、という論点の2つをわけて考える必要がありそうだ。(その他に当然、3)ホリエモンという問題そのもの=堀江の手法そのものに対する批判と賞賛、が現状では最大の議論の焦点になっているが、ここにはあまりこだわらないほうがいい)

1)に対して思うところも当然あるけれども、これに関しては、また別の機会に論じたいと思う。(これはさすがにきちんとやりたいな)

メディア企業の敵対的買収ということで、今回のケースの固有の論点になるのはむしろ、2)のほうだろう。

先日紹介した江川紹子さんの記事は、明らかにホリエモンの描くメディアの未来像に懐疑的だった。

江川紹子という人は、アラレちゃんみたいな外見で損をしてるけれど、きわめて骨太な第一級のフリーライターだと個人的にはリスペクトしている。一連のオウム問題で名をあげた人だが、その後のTVとの適度な距離のとり方を見ても、ザ・ワイドで毒にも薬にもならないコメントを発し続ける有田芳夫なんかとは対照的に、とても筋が通った行動をしてきたように見える。

そんな彼女が、既存メディア状況の弊害に関して、ライブドアのメディア担当などとは比較にならないほどの問題意識を持っていることは容易に推測できるが、その彼女にして、「市民記者の記事を人気ランキング順に紙面に載せる」「読者の関心の薄いゴミ情報を記事にしてもしょうがない、それはメディアの押し付けだ」とうそぶくホリエモンの「リベラル」なビジョンにはまったく首肯できないという書き方であった。
つまり乱暴にまとめれば、既存メディアも腐っているかもしれないが、その腐った既存メディア内部の「志」に賭けたほうが、ホリエモンの描く「リベラル」なビジョンの胡散臭さに乗るよりはマシだ、という判断だろう。

違う見方をする人もいる。

ネットは新聞を殺すのかblog

このブログでは、件の江川紹子サイトの記事を検証して、こうまとめている。

こういう話し方をしていて、正しく理解してくれるわけはない。江川昭子さんは取材を終えて「ユーザーの関心度だけが、掲載の基準となる。彼が作ろうとしているのは、そういうメディアだ」という結論に達している。伝えるべきことを伝えるのではなくスキャンダルでもいいから受けのいい情報だけを出していればいいという考え方だ、と理解したようだ。  別にホリエモンの肩を持つ義理もないのだが、ホリエモンの言いたいことを補足説明すれば、「伝えるべきを伝える」という作業は各ブロガーなり、市民記者が行う。それぞれが主義主張を持って活動すればいいわけだ。読者は、自分の信頼するブロガーや市民記者を通じて情報を取得していく。ライブドアは、その場を提供するだけだ。ライブドア自体が主義主張を持つことはない。このブログで過去に何度か書いたが、それがホリエモンが考える参加型ジャーナリズムの形だ。

たぶん、江川紹子はこんな低レベルな誤読はしていない。
ライブドアが提供しようとしているのは「場」であり、その「場」を利用するブロガーや記者が「志」を介入させる可能性はある、というぐらいのことはわかっている。
その「場」を提供することでライブドア社とホリエモン個人に資本が蓄積されていくことに対する恨みつらみも、とりあえずは感じられない。

ただし、ホリエモンの構想する読者=消費者による人気投票と自由な市民記者の投稿を組み合わせた「参加型ジャーナリズム」という文字通り「リベラル」な「場」は、結果的にはおそらく、規制に守られかつ縛られた「腐った」既存メディアという「場」よりも少数者の声が取り上げられにくい、より非民主的な「場」になるという逆説を招くだろう、という分析をしているわけだ。

この分析の是非の判断は、とても難しい。


おそらくタイミングを見計らったものであるはずなのにあまり話題にはなっていないけれども、ライブドアのサイトでは、市民記者・「パブリック・ジャーナリスト(PJ)」による独自のニュース記事の掲載が、2月の上旬から始まっている。

中でも、小田光康さんという方(昨年度まで東大の社情研でも教鞭をとっていた方らしいのだが、不勉強ながら今日まで存じあげなかった)が、「パブリック・ジャーナリスト宣言」なる鼻息の荒い文章を寄せているのは注目に値する。

「集団過熱報道、記者クラブの閉鎖性、客観報道という名の傍観報道、そしてマスコミ同士の泥仕合。21世紀初頭の日本では、『マスコミ』と呼ばれる、大手メディア企業に生息する一部の人々の厄害が氾濫している。市民社会の担い手であるパブリックから権力の監視機能を信託されてきたジャーナリストの職域が、『マスコミ』によって蹂躙されているのだ。」

こんな「共産党宣言」のパロディを、ライブドアのような企業の新事業の広告塔として寄稿するのは、「資本の中枢での果敢なる奪用」なのか、はたまた「唾棄すべき日和見主義」なのか(笑)

この「宣言」でも触れられている通り、韓国の盧武鉉政権を実現したブロガーのパワーというようなことが、これらPJ派の錦の御旗になっているが、果たして。
小田さんのような方が、近い将来大いなる失望を胸にライブドアのPJ職を離れることがないように祈るが、ライブドアのような「場」のレッセ・フェールは多様性を保証しないという江川紹子の慧眼と洞察力を信用するとなると、その公算は結構高いことになる。


この論点は、今後も折りに触れて考えていきたい。
予想以上にしっかりしているので、これは結構本気だなと思わせるライブドアのPJ募集スキームに応募するまでの熱意はありませんけど。


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February 13, 2005

ちょっと馴染みのないジンバブエ情勢から

「ライス長官は白人の奴隷」ジンバブエ大統領、痛烈批判 - asahi.com : 国際

まずこの件は、前提となるジンバブエの白人地主の土地に対する占拠問題を知らなければ、何が何だかわからない。(そもそも、ジンバブエが「圧政の前線基地」に指定されていることすら、日本語圏ではあまり知られていなかったのでは?)

ちと僕も正確なところがあやふやだったので、こんなところやらこんなところで確認した情勢を簡単にまとめます。

ジンバブエ、かつての英領南ローデシアは、1980年に独立します。それは、アパルトヘイトが蔓延する南部アフリカ地域の中で、白人層が平和裏に黒人にいちはやく政権移譲した事例であり、南部アフリカの希望でもありました。そのとき、お隣のモザンビークが「性急な」改革を焦ったせいもあって飢餓と内戦にあえいでいることもあり、白人地主層が保有している土地改革という最大の課題を先送りしたことが現在の状況の根本にあります。
白人地主層の国外流出が起こらなかった80年代には、輸出農産物生産が順調に推移し、国内状態も良好に成長していきました。しかし、独立後10年を経ても、1%の白人地主が3分の1の耕地を相変わらず占有しているというこうした発展モデルでは、人口の圧倒的大多数を抱える黒人土地なし農民層は、一端経済不安に陥ると、土地問題にすべての不満の原因を求めて暴発するというリスクを負っています。
政府批判・体制批判が高まる中で、2000年、独立以来大統領の在に座り、実質的に白人地主の権益を守り続けてきたムガベ大統領が突然、選挙対策のために白人地主の土地の接収を打ち出し、黒人土地なし層による襲撃・占拠を煽り始めたのです。都市部を基盤にする野党はこれに猛反発、政治的には今まで「控えめに」していた白人地主層も野党と共闘するようになり、大統領は「人種差別主義者」の野党への徹底的な弾圧を開始します。そして、当然のように、数々の惨劇と輸出作物の生産過程をほぼ独占していた白人地主の流出、政治的空転が続き、農業生産は崩壊して、完全に国民経済は破綻していったのです。
2002年に英連邦は、「連邦内に非民主主義国家は認めない」とする英・豪・加など連邦内主要国と、制裁を躊躇するアフリカからの加盟国、静観するアジアからの加盟国(マレーシアなど)という駆け引きの構図を経て、結局ジンバブエの英連邦資格の停止を決定します。そしてその後、国際世論を一身に敵に回し、カタストロフへの道をひた走る・・・

といういのが、ここ25年のジンバブエの大まかな歴史。

さあ、悪者は誰ですか?

ブッシュ政権に名指しされる悪玉はもちろんムガベ大統領です。このおっちゃん、元はゲリラ戦の闘士だかなんだか知らんが、どう考えてもええ加減ですわ。

しかし、土地占拠そのものはどうですか? ジンバブエ経済がうまく回っているからって、富を生み出す土地とシステムのほとんどを白人入植者が占有する=植民地主義の継続と固定化、っつーのはおっけーなんですか? ムガベ政権を制裁するなんてブリテンは息巻いてますが、そもそも白人(ブリティッシュ)入植者に接収される土地に対する補償金を払って、政府による土地改革を進めるというプロセス(一定期間後の土地改革の推進は、独立時に英政府とジンバブエ政府の間に交わされたランカスター協定にも謳われている)を後回しにし続けた責任はないのですか?

とまあ、こちら=対岸からこの程度の情報を集めてみると、この火事の原因は、「どっちもどっち、難しいところですなぁ」というあたりじゃないですか?
もちろん、2000年当時から相当メディア報道が盛んだったイギリス人にしてみれば、そんなもんじゃないっすよ。自分の親戚の土地が武装した黒人農民に占拠され、家は放火され、中には命を奪われたりした人だっているわけです。で、その惨劇を、自分の失政から目を背けるために煽っているムガベは、当然悪玉に映りますよね。

さて、そんなわけで、お隣の「圧政の前線基地」と日本との最近の軋轢は、「対岸」にはどんな感じで見えているのか。

そういうことを、こんなことを機に考えてみるのも悪くないかもしれません。

正直言って、東アジアの情勢って、ヨーロッパ人にはほとんど知られていないですよ。
彼らにとってはアフリカの方が遥かに近い。

イギリス留学中に、韓国人の友人と一緒にいると、「ところであなたはNorth Korea、それともSouth Korea?」という脱力の質問をされる場面に何度も居合わせました。
よほど東アジアとビジネスでつながりのある人でもない限り、大学院生レベルでこんなもんです。

こういう状態ですと、「対岸」の、特にリベラルな(中東の圧政の前線基地に攻め込むことに反対するデモに参加したような)人たちほど、「北朝鮮が核開発したからって、アメリカの核の傘に守られている日本がぎゃーぎゃー言うのは違うんじゃないの?」と思うことでしょう。「たかだか10人や20人の拉致のことで、何そんなに熱くなってんの?」と思う人もいるでしょう(そう考える人はむしろ、別の理由で韓国に多いかもしれませんが。)

北朝鮮の肩を持つつもりなど毛頭ないのですが(こういうこと書くと、そんな変な誤解する人もいるかもしれないからね、為念)、自分の国や周辺国の抱えるトラブルは、「対岸」にはどんな風に映っているのか、という相対化の視線は、常に持っておいたほうがいいと思います。
そんでもって、どんな主張をしたほうがいいのか、していかないと非当事者には伝わっていかないのか、ということを考えたほうがいいと思います。

メリケン人にならないためにも、ね。


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さらりと平常モードで始めてみる

ちょっと話が込み入っているから、ことの重要さに比べてあまり話題にもなっていないし、話題になっているとすればマネーゲーム的な側面に集中してしまっていて、ウェブ上でも、ちょっと株を齧った連中が俄か勉強の会社法の知識を引けらかすような議論になってしまっているけれど、ことの本質はそんなところにない。

これは、記事もインタビューもきわめて興味深いので、みなさんに紹介。

http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_40.html

この男とこの男の会社は、実は何一つ生み出したものがない、ということはみなさんもご存知のことだったと思いますが、これほどまでに何かを生み出すことを積極的に忌避している姿勢には、あらためて驚嘆させられます。以前に人質事件のとき、志への躊躇ということを指摘したことがあるけれども、彼はまさにそのイデオローグなのだね。イデオロギーなきイデオローグという無敵の存在。

この、それほど長いわけでもないインタビューで与えられた情報だけでも、現代における資本制の構造変動の諸側面が滲み出ているわけですが、まあそれはそれとして。(単に時間がない)

一つだけ指摘しておくと、この記事にある自分たちのメディア戦略とロイターを重ねているくだりがあるけれど、決定的に違うのは、ロイターはプロフィットセクターの収益で、戦争報道などのコストセクターを抱えたわけだけれど、この男の会社は、コストセクターを抱える気はさらさらないということ。まあ、それこそがイデオロギーなきイデオローグたる由縁なわけだ。
それは堀江の人格的性向とも言えるけれど、財の流通規模そのもの(のみ)を価値とするその態度は、やはり後期近代ならではの現象ともいえるのではないだろうか。

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February 04, 2005

味覚偏差値

シンガポールというと、わりと自分の研究とも関係があって、街の印象を語り始めるとちょっと重くなってしまいそうなので、とりあえず割愛。

で、まあとりあえずメシのことでも書いときますか、てな具合にね。

うまいと評判の店がうまいのは当たり前。金出した店がうまいのは当たり前。
その街のメシが真にうまいかどうかって言うものさしは、「適当に入った店がどのぐらいのレベルか」ってところにあるわけですよ。

で、シンガポールですが。
シンガポールって割りとグルメなイメージあるじゃないっすか。でもそれって相当、??ですよ。

今回はリトルインディアに滞在しているのですが、着いた早々行ってみた近所のインド系のホーカース(屋台村みたいなもの)で、まずやられました。

ミーゴレン3$、マンゴーラッシー2.5$、ロジャック(インド風の揚げ物スナック)のチョイスを1.8$。
ロジャックはどれも決定的にまずいっす。チキンソーセージもよくわからない薩摩揚げみたいのもありえない。まずまったく暖かくないところから店にも客にも情熱が感じられない。
マンゴーラッシーもまずい。びっくり。全然スムーズじゃない。ミーゴレンは辛いだけ。
口にあわないローカルフードでも 「これは現地の人にはおいしいんだろうな」と感じることはできます。発酵食品を大量に使った西アフリカ料理@リスボンなんかはそうでした。でも、これは違いますね。食に対する情熱が感じられない、というのは、基本的に作るほうも食べるほうも、食べるということにそもそもあまり高いプライオリティを置いてないということです。
ちなみに、テッカ・センターという、リトルインディアといえばここ、っていうぐらいのホーカースなので、そこに行ってからは適当な屋台で頼んではいますが、まあ完全ランダムよりは当たり確率が若干高かったはずなのに、です。

翌朝は、朝飯代わりにセブンイレブンで、カレーパフ(パイみたいの)とワンタンボール。カレーパフはともかく、ワンタンボールはありえない不味さ。まったく味のしないスリミが、ベタベタに揚げられているだけ。ボリュームだけはあり、食べるのに苦労しました。

で、これは一度底を見ちまおうと思って、仕事を抜け出した昼飯時には、目抜き通りのオーチャード通りにあるショッピングセンター地下のホーカーズで、地元資本らしい回転寿司を。
もちろん、日本以外の世界中どこで食べても、回転寿司なんて大抵まずいに決まってるんだけど、それでもそこに差はある。だから、どのレベルまでその街の市民が許容できるのか(つまりまずい店でもどのレベルまでならつぶれないのか)、っていうのを計るひとつの味覚偏差値の物差しにはなると思うんだよね。
12.5$で回ってるものなら食べ放題コーラまたはスプライトつき。ただし、生もの系(まぐろ、メカジキ、タコ、イカ、えび類があるようだ)は別注文らしい。
回ってるものは、巻き寿司中心。中身は、キュウリと海老やソーセージなどの揚げ物の組み合わせが多い。うーん・・・魚卵のフライが載った握りもある。なぜ揚げるかね。
で、結論としては上海の元禄寿司のほうがぜんぜん上。ロンドンの回転寿司よりもキビシメかな、というレベル。そもそも、コーラかスプライトをつけるって発想する時点で、お里が知れる。緑茶だって普通に売られている土地柄なんだから、茶を出せよ、茶を。
まあ、さすがにこの店には、僕以外に一人も客がいなかったので、ここでシンガポールの味覚偏差値を計ってはさすがに、申し訳ないか。意地で隣の味千ラーメンを食べるという手もあるが、押しとどめまちた。

その日の夜は、5時半に仕事場近辺では一番評判がいいと言われているらしいスコッツ・ショッピングセンター地下のホーカーズへ。中国系の総菜屋にしてみる。牛肉のトウチ炒めと青菜炒め、チリ豆腐(あえて麻婆豆腐とは呼ぶまい)の3品とご飯で4$弱。正直、自分で作ったほうが全然おいしいレベル。

しょうがないから意地になって、ガイドブックで「こんなローカルな人しか行かないような穴場に行けるのも、治安のいいシンガポールならではの楽しみ」なんちて煽っている評判のいいチャイナタウンのホーカーズを行ってみる。んで、その中でも、これまたこの店のこれを食べるしかない、というものを捜し求めて、ピープルズパーク・ショッピングセンターの高記のヨン・トウフー・ミー3$(ぐー長ったらしい)。
ヨン・トウフーという詰め物をした揚げ豆腐が数種類入ったスープ(おでんの変種みたい)と、葱油で絡めた香港麺のセット。スープのコクというものが全くない。
確かにここは、ローカル色の強い雑然としたホーカーズで期待は高まるが、やっぱり超ローカルなテッカマーケットもアレだったからなぁ、しかしそれにしても春節どきにここのBGMはなぜにジングルベル?なんちて思いながら、ずずっといくと、結果、まあまあ美味しいね、というものにようやく出会えたかな、程度。お好みで入れるチリソースがなければ成り立たない味。
ここまでして、これですか、と。

で、ようやくこれは!っていうのに出会ったのが翌日のブランチ。
もうガイドブックで相当ほめているところでもないと駄目だ、と思いまして、ホテル近辺でもっとも評判よさげな南インド料理の店でフィッシュヘッドカレーを食べたら、これにはぶっ飛んだ。オクラと一緒に煮込んだサラサラのカレーで、本当に美味しい。付け合わせの茄子の煮込みや、レモンジュースも素晴らしかったっす。

まあ、ピンが見えてきたので、ちゃんとしたとこいけばそれなりなのかなぁ、と思って、今回の出張目的のカンファレンスの会食で行くことになった「シンガポールの代官山」、ホーランド・ヴィレッジのミクスチャー・キュイジーヌには期待したんですがね。
「サーロインステーキ、アールグレイ・ソース仕立て」だの「ベジタリアン・テンプラ・ウィズ・ワサビマヨ」だの、いかにもそれっぽい料理の中からチョイスした豆鼓胡椒風味のローストビーフはといえば。。。
That's ENGLAND !! (褒め言葉ではありません)

創作料理って言うジャンルも、味覚偏差値のひとつの物差しになるところですが、こんなものですか、と。


で、今のところの僕の「味覚偏差値」評価は、こんなところかなぁ。
ロンドン=プラハ<リスボン≦シンガポール<カラチ=ニューヨーク<バンコク<ベネチア<上海<ブダペスト=ラスパルマス<ソウル
ほんと、ソウルに関しては、かなりいい加減にどこに入ってもおいしいと思いませんか?

ちなみに東京はどこか、ですか?
カラチとニューヨークの間あたりじゃないでしょうか。
だって、東京って適当に立ち食いそばとかに入るとかなりヤバイじゃないですか。観光地の定食屋なんかはなおさら。ただ、東京のメシ屋って、何のかんのいって底上げが最近急速に進んでると思いますよ。実はそれって、「ラーメン・ブーム」と吉野家・松屋・オオトヤの功績であることは否定できないんじゃないか、と思ってます。
この辺は、ちょっと微妙な論点につながるんですが、脱線してきたので、帰国したらまたいつか。(と書いて書いたためしはない)

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February 03, 2005

3ヶ月放置したブログを突然シンガポールより更新(謎)

音楽ネタを2つ。

・HMVをチェック。欧米の品揃えはそこそこ。値段は1500円前後。
中国系ほどではないが、J-POP、K-POPのコーナーもある。最新ものはないが、割とオーソドックスなチョイスなれど、なぜに「大塚愛」と「ピンポン」が"Parental Guidance"指定なの?
「座頭市」はR16だった。それにしては「椎名林檎」は、3rdアルバムのタイトルが「Kuri no hana」になっているだけで(w、PG指定なし。基準がわからねぇ。

・1枚4$、3枚10$と看板に書かれたCDショップが目立つ。来たな、海賊版、と微笑んで物色。欧米・中のビッグアーティストの「ベスト版」が並ぶが、なぜかそのアーティストの曲じゃないものも1枚のCDに収められている。ブリトニーのCDの後半が突然デスチャだったりとか。
「著作憲法違反摘発逃れ対策か?」などといぶかしみながら、ニルバーナの曲は2曲しか入ってないニルバーナのベスト版を購入。
 ホテルで早速聞いてみる・・・
 Smells Like A Teens Spirit久しぶりだなぁ。ちょっと音質悪いかな・・・
 Hole In My Soul、エアロスミス、最近の曲はよく知らないなぁ、この曲ジョーペリーが
 歌ってるのかなぁ、スティーブン・タイラーの声はコーラスなの?・・・
 スコーピオンズのWinds of Change懐かしいなぁ、あれ、こんなアレンジだっけ・・・
 ガンズのDon't Cry・・・そういや、この2ndアルバムは買わなかったんだよな、相変わらず
 アクセルはいろんな声が出るな、イジーも結構歌ってるのかな・・・
 ディープパープルの「幸運な兵士」、ああ、これ結構泣ける曲だよね、んん? ライブ録音?
 ・・・で、My Friendってどっかで聴いたことある曲・・・ええええ、レッチリ? なわけないじゃん、これが!!!
 ボーカルも違えば、ドラムの重たさも、フリーのベースの躍動感も一切なし。
 あ、やられました。やられたことにこの期に及んでようやく気がつきました。要は、250円出して、名も知らないコピーバンドの演奏を聴かされていたのですな。気づくの遅すぎ。
 規制が厳しく、知財戦略もしっかりしてる(推測)シンガポールで、250円のCDがあるはずないわな。「共産主義」の上海は、抜け穴だらけで海賊版CD掘り放題だけどね。考えてみれば変な話だね。

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