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October 31, 2004

話はそう単純でもないと言うことらしい

当たり前のことなんだが、立ち位置によってここまで見え方は違うものなのか、と。

MSN-Mainichi INTERACTIVE サッカー

非常に勉強になりました。
こういう記事は、とてもいい仕事ですね。ちょっとマスメディア離れしているところが、いい。

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October 28, 2004

マイヤヒー続報&「社会が壊れる」について

とりあえずこれが、現時点での日本語で見聞きできる「マイヤヒー」情報の決定版でFA?

不可思議音楽
オゾンそのものの情報は、O-Zone-Hallへ。

英仏西語版に、おまけにポーランド語、もちろん日本語訳もあるので、別に必要はないけど、ルーマニア語っていうことで、イタリア語とかわかる人には、結構意味取れそうなんじゃない?
僕のほんの僅かなポルトガル語知識でも、雰囲気ぐらいわかりました。

やっぱり、だったけど、「ピカソ」は「ピカソ」だったね。


6ヶ月前から時々使っている言葉、「社会が壊れる」について、いつかはしっかり書かなきゃ、と思ってはいるのですが、とりあえずはこれを読んでみてください。この文章の中で「コミュニティ」と呼ばれているものが、僕が「社会」と呼んでいるものです。

解体され具合は、底流ではサッチャリズム期のイギリスより現在の日本のほうがはるかに深刻かもしれないのに、表層に出てくる病理はあまり目立たないから、この国ではダニー・ボイルも生まれないのね。

一言だけいっておくと、サッチャリズム期の英国でも、小泉期の日本でも、「コミュニティの復権」を叫ぶ保守派こそが、こぞって社会を解体する方向を後押ししているという印象があります。表層的でクソみたいな「伝統的価値」に拘ってる場合じゃないのにね。
そんな裏で、同じ船に乗っているフリをしながらほくそえんでいるのは誰なのかを、考えていかなければいけないはずなのに。


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おまけ

ちょっと懐かしくなってしまったので、いろんなものを検索。

クロアチアのハウスその他のポップ・ミュージックを聞きたい方は、こちらへ。
無論、フリーダウンロード可です。

ドブロブニクから更にモンテネグロ国境に近づいた田舎町、ズヴェコビッツァのガキどもに一番人気だったのは(←どういう意味のある情報なんだ、それ)、JINXというユニット。
それもしっかりあります。そうそう、これこれ。

便利な時代になったね~♪

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これねぇ・・・

asahi.com : ニュース特集 : 自衛隊イラク派遣 : イラク日本人人質

どうしましょっか。
って答え決まってんだよな、もう。

6ヶ月前には自分も随分噴きあがったネタだけど、あれだけオイシイ反応得ちゃったからには、官邸はもう何も迷うところがないだろうしなぁ。
それを見守る方も見守る方で、選択肢なぞないことがわかっちゃってるから、反対にせよ賛成にせよイマイチ盛り上がりようもないし、折り「よく」新潟に目が行ってるしね。

しかも、今度はバックパッカーで、「プロ市民」よりさらに・・・(以下略)
まあ、この手のネタで「こいつはあいつより馬鹿だ」比較をしても何の意味もないと思っていて、動機や資質の「正当性」を掛金に論じてく不毛な流れには与したくないんだが。

(今更の話になるけど、一応書いておこっかな。イラクに行く必然性がある=行って誉められるジャーナリストやNGO職員なんていう存在を仮定できるとして、いかに人質連中がそれに値しないかっていうことをねちっこくあげつらうような仕事を、半年前にたとえば山形浩生みたいな人が異常に熱心にやっていたけど、これに関しては品のないエリート意識しか感じなかったなぁ。だってどんなジャーナリストだってNGOだって、「志しかない駆け出し」の時期を経ないと誰しも「ホンモノ」にはなれないわけで。それを否定しちゃったら、結局のところ歴戦の戦場カメラマン・橋田さんもペシャワール会の中村医師もこの世に存在し得ない。その駆け出しの時期に運悪くトラブルに巻き込まれたとしたら、彼らの危機管理の甘さは、安全地帯にいる人間がとやかく言うべきことじゃなくて、現場で師匠筋からガツンと(Zガンダム風に言えば)「修正」されるべきことなんじゃないかな。エマさん→(*゚ロ゚)ノ ゙(ノ><)ノ ←カツorカミーユみたいにさ。無論、イラクでの人質なんていうのは、トラブルっていう域を越えてる一大事だが、本質的には変わらんでしょう。だから、橋田&小川イイ!(・∀・)、高遠以下5人イクナイ!(・A・) みたいな単純な話を日本でするっていうのは、気持ちとしてはわからんじゃないけど、かな~り違和感があったんだよね。まあ、いずれにしても今回はバックパッカーとのことで、この話さえも関係ないわけだが)

話戻ると、今回はあまり両陣営とも「盛り上がり」を見せないまま、48時間が淡々と経過するでしょう。
ただね、今回は、かなりの確率で死ぬよ。ホントに。何せ相手が悪すぎる。

その映像を見せつけられたとき、すっかり「社会が壊れた」この国ではいったい何の扉が開くだろう?
怖いもの見たさの趣味はないのに、それを見なければならないのは、やっぱりかなりイヤだ。

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October 27, 2004

マイヤヒー

こんなのをここに来てmasa-nさんに教えてもらうなんて、ヨーロッパもダンスフロアもはるか遠くになりにけり、と。

このモルドバ発の曲に関する、ヨーロッパ大陸を股にかけた悲喜こもごもは結構おもろくて、ぜひぜひここを参照してください。

個人的には超懐かしい音。
2000年のダルマチアの悪ガキ(もちろん全員失業中)たちは、ビール飲みながらこんなのを延々と聴いてた。
(そういや、本家サイトのクロアチア旅行記、全然更新してないことも思い出させられた。自分としては珍しく、この旅行は詳細な日記をつけているからいつでも書けるのだけど、いざ一番面白いとこにさしかかると、「うーん、これは書けねぇべ」な感じで、興が削がれるんだよね)

こういう音、確かにイタリア人は大好きなんだよねぇ。
まあ、往年のイタロハウスのお膝元だし、それにテラロッサや黒土の香りをたっぷり振りかけたこんな音は、彼らのノスタルジアを伴った馬鹿騒ぎにはピッタリなんでしょう。クストリッツァ監督の『黒猫・白猫』にも、こんなテイストのセルボ・ハウスが結構出てきたような。

でもこういう音は、数年前までのいい加減な感覚からすると、大体イタリア、フランス、スペインやギリシャでは流行るけど、よほどのビッグヒットにならないと、ドイツやイングランドまでは上陸しないんですよね。イギリス留学時代にも、このテのダンス・ミュージックの好みをみると、やっぱラテン圏ってあるなぁ、ってよく思ってたような覚えがある。
同じ東欧でも、チェコあたりは、もっとフランクフルト風やらロッテルダム風のハードハウスっぽいイメージがあるしな。
で、その両者の最大公約数がイビサのバレアリック・ビート、みたいな。

ヨーロッパのダンスフロアって、大づかみはそんな感じでよかったっけ?
って誰に聞くわけでもないですが、教えてエライ人。

しかしそんな御託はともかく、このオリジナルのPV見ると、やっぱ個人的に好きだな、このテイスト。
何だか理由はよくわからないんだけど、ラテンとスラブが掛け合わされたあたりの地域のユースカルチャーのセンスって、何だかちょうど痒いツボにはまって、理屈ぬきでビンと来ることが結構あるんだよね。

上のリンク記事には、彼らはひょんな偶然がなかったら、英語曲でのイングランド進出を考えてたそうだけど、しなくて(できなくて)大正解だっただろうね。
この曲の泥臭さ、つまりは「中心との(空間的/時間的)距離感」さえも、いやそれこそが、商売のタネになる時代だからね。一発屋=色物としてなら、ということにはなるだろうけど。

ただその果てには、僕らみたいな極東のネット厨にまであんな形で超短期間に消費されることになってるわけで、そんな瞬間的なハイプ→一気に潮が引く人生と、なけなしの英語曲でロンドン上陸→鳴かず飛ばずですごすごとモルドバのアイドルに出戻り人生と、本人たちにとっちゃどっちが詰まるところ幸せか、って言われればよくわかんないところもあるけどね。
もうこうなっちゃったら、退屈極まりないキシニョフに引っ込んで真っ当な人生は送れないだろうからなぁ。

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October 26, 2004

真剣に生きてない・・・_| ̄|○

唐突ですが、↑がここしばらくのワタクシが取りつかれている悩みです。

仕事=研究そのものにもそうですし、その他のことについてもそう。
つまるところ、なんか一生懸命生きてないなぁ、脳味噌全開になることなんて滅多にないなぁ、という感じなのです。

なんか、気力を失っている状態になることは多々あるのですが、ちょっと長期間かつ深刻なのですよね。
『ピンポン』では、映画でARATA氏が演じたスマイルが、「卓球なんて死ぬまでの暇つぶしだよ」と嘯くシーンがありますが、カッコよく言えばそんな感じ。もちろんスマイルほどの才能は無いので、普通にカッコ悪く言えば、ただのダメ人間です。

で、それで割り切れていれば別にいいんだろうけど、一生懸命生きている人を見るとなんか無性に自己嫌悪に陥るぐらいの中途半端な「真っ当さ」が残っているところが、また厄介。

池波正太郎は、江戸人は昨日と変わらぬ今日があることをこそ理想とし、職人や御家人それぞれの「分」の中で、未来永劫拡大もせず縮小もしない暮らしを理想としたと繰り返し書いている(まあ典型的な中世人の生き方と言えなくもないけど)。
だから、自分のおかれた状況を劇的に変えるような「向上心」や、今風に言えば「起業家精神」を持つことは基本的に彼らの発想になかったというし、何かに夢中になることほど無粋なことはないとされたそうだ。適当なところでほどほどに、しゃれっ気を出して人生を茶化してしまうような生き方が江戸人の粋であったわけで、たとえば永倉サンがその後の生涯に仲間の霊を弔い続けるほど強い紐帯を感じていながらも、土方や近藤と結局は袂を分かつのは、旺盛な独立心の故という事だけではなくて、多摩の百姓の生真面目さについてけなかったからだということになる。

江戸人どころか東京人でさえない自分のくせに、なぜか「江戸」が濃いことになっている世界と関わっていることもあって、こんな池波サンの描く江戸人の生き方を実践しているということを自分への言い訳に、のらくらと生きてきたわけだけど、基本的にはミドルクラスの近代人として教育を受けた自分が、秋山小兵衛みたいになりきれるわけもなく。
ありがたく頂戴したはずの最低限のやっつけ仕事を、まあ何とか怒られない程度には「こなし」ながら(自分のいい加減さの本当のところは、こんな公器で発表することは到底できないものだけれど)、さりとて余暇を「主体的に」充実させるわけでもなく、せいぜいがZガンダムDXにコインを突っ込むぐらいの日々を送っていると、「こりゃあ、いま死の床に臨んだら、自分の薄っぺらな人生を悔やむことになる罠」などと思ってみたり。

てなことをどよどよ考えてた(しかし特に何も動き出さない)先日、すげータイミングで『ラディカル・オーラル・ヒストリー』という本を読んでしまったときは、さらなる自己嫌悪にどーんと陥りました。
一気にほぼ通読はしたものの、このスケールの大きい本を簡単に書評する準備はない。しかしともかくも、著者の知そのものへの、「研究対象」への、そして自身の人生への、きわめて真摯で誠実な姿勢には圧倒された。
そこには、誠実に濃く深く人生を歩み続けようとする筆者の真摯さは、しかしまた、貪欲な「上昇志向」みたいなものとはまったく無縁。研ぎ澄まされた剣の上を歩くようにラディカルなのに、ケレンミ・ハッタリは一切なし。形容詞を思いつかないほどの迫力を、この著作を通じて読者も感じ取ることができます。

ご存知の人もいるかもしれないけど、この本が出版されたのは、著者の保苅実さん(個人的には、ちょっとした知り合いの親友であった)が短すぎる生涯を閉じる僅か5日前でした。(もちろん、この背景は、この著書に決定的な影響を与えてはいるだろうが、この情報をあまり強調するのは適切ではない。そうした背景と何の関係もなく、この本は革新的な歴史学の傑作です。彼の人柄や自身の生との向き合い方を知りたい方は、ぜひこちらのページを。)

大した年齢は変わらない彼と我が身を引き比べ、答えようのない愚痴を友人にこぼしたところ、こんな風に言われました。

「いやー、お前はこのまま生きてけばさ、「あー、いろんなこと適当にツマミ食いしてまぁまぁ楽しい人生だったっすね」なんつて笑って死ねんじゃないの。仕事だの家族だのに身を捧げたら、ああ勿体無いことしたな俺の人生、もっと適当に楽しめたはずなのにって思うよ、お前なら」だって。

確かにそうかも。
さすが、15年来で、おたがいの交友関係が結構多方面にかぶってるコイツは、よくわかってんじゃん。

褒め言葉じゃ断じてないんだろうが、まあほんの少し元気にはなれました。つか、都合のいい言い訳がまた一つできました。

とりあえず、「せめてブログぐらい更新して脳細胞の石化は防いどいたほうがいいよ」とのお言葉を頂戴したので、とりあえず三日連続で更新してみるテスト。

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October 25, 2004

ていうか許されてなかったんじゃん、「抱擁力」・・・(藁)

Amazon.co.jp: 本: 抱擁力―なぜあの人には「初対面のキス」を許すのか

まあ、セクハラっていうのも本質的に、後付けで第三者がどうだこうだ言うのはフェアじゃない部分があるけど、それにしても脇が甘すぎ、というより調子に乗りすぎたね。
「選挙に落ちた議員は大抵公職選挙法で捕まる」みたいな話で、やっぱ落ち目になってくると、こういう事案もワラワラと出やすくなってくるんだろうか? だとするなら、危ない橋を渡ることで「再建屋」の名を馳せてきた氏なら、よっぽど脇を固めておくべきだったと言うことなのだろう。それができずに、中谷彰宏みたいなやつにヘラヘラとおだてられてたのは、危機意識の欠如、自信過剰による驕り、としか言いようがないやね。

このブログでは、政界でも財界でもどちらかというと、スマートだけど鼻息の荒い「若手」のお歴々を揶揄する傾向にあるけど、「既成産業のオヤジ」もまったくもってしょうもないからなぁ。

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October 24, 2004

チョットゲンキニナッテミル

この展開、ちょっとおもろいね。

なんて、自分のブログの存在すらも忘れていた照れ隠しに、唐突に始めてみるテスト。

昨日は、鹿島磐田二強時代なぞというものが完全に過去のものになったことを思い知らされる、カシマスタジアムでの凄まじいレッズのアタッキング・サッカーに酔いしれました。
(レッズに関しては、ブッフバルトからの長い展開に岡野、福永が走りこむ、そして福田がーっ、ていう時代から、小野・ベギリスタイン・サリナスという時期を経て、ずーっとやりたかったのはこの縦に速いサッカーだったんだろうけどね。その宿願が、エメルソンと達也のみならず、全ポジションにタレントを揃えられるようになって、ようやく実現できるようになったということなんだろうけど、二部に落ちようが親会社がヘマをしようが、最終的にここに戻ればいいという「伝統」のチーム戦術を捨てずに強化を続けられたことが実を結んだんでしょう。素晴らしいことです)

んで、達也のインタビューをほのぼの聞いてたら、画面に一瞬挿入された、アントラーズ選手がゴールネットに押し付けられて鹿サポにボコられてる衝撃映像!
え、え、ナニナニ、って思ってる間に、今度は地震! 衝撃映像のフォローなど一切なく、NHKは地震特番に突入してしまったので、仕方なく2chサカ板を覗くも「人大杉」。わかったのは、ボコられてたのは本田だったという事実だけでした。

事件としては、35にもなってビールの缶スタンドに投げ返すかよという話でもあり、まあそこで投げ返してこそ、ビスマルクをねちっこくマークして初期Jリーグの名シーンを演出した負けん気の強い本田泰人の面目躍如というところでもあり、というところなんだが。

しかしまあ、こんなヨーロッパでもそうそうお目にかかれないシーンがねぇ。ここはアルゼンチンか、っていうような熱さを醸し出すなんて、あらためてすげぇな、Jリーグ。まあ、レッズvsアントラーズという因縁やら、元ヤンが多数を占めると評判のアントラーズ応援団の某中核組織などの影響もあるだろうけれど、それにしてもすごいです。

2週間前にも書いたことだけれど、「失われた10年」と言われたポストバブルの時代に、これほど全く新しく、かつ影響力が大きいシステムを立ち上げて、かつ短時間で成功させた例は他にないのではないだろうか。
Jリーグ創設期に学部生だった僕の周りには、わけ知り顔で「プロサッカーなんて、所詮博報堂の仕掛けだからね」なんて言っていた東大生どもが多かったけど、ホントやつらはアホだ。しかし、その後皮肉にも初めてW杯に出場するのと同時にフリューゲルス吸収合併という憂き目を見た時代には、その8年後にイギリス人ジャーナリストにこんなことを言わしめるようなシステムが根付いてるとは、僕も想像だにできなかった。

(ちなみに上記リンク中に出てくる浦和レッズのアルパイ・オザランは、僕がバーミンガムにいる頃にアストン・ヴィラに移籍してきて、トルコ代表守りの要として日韓W杯でも大活躍するも、その後代表戦でのベッカムへの暴言騒動を理由にヴィラから理不尽にも解雇され、その後韓国を経て埼玉に流れ着いたストッパーです。まだトルコ代表には復帰してないみたいだけど・・・)

本当に、ここ最近のJリーグを見ると、元気になれる。
キチガイじみた信念を持った人間たちの情熱が、それを単なる短期的な商売の種にしようとした輩の思惑に振り回されながらも、それに踊らされることなく、結局は大きな構造を変えうるシステムを構築してしまうなんて。
この社会には、まだまだやれることは、ポテンシャルはあるよ、八方塞だなんてただの言い訳だ。最近のビッグスワンやカシマスタジアムの光景は、そう思わせてくれます。

まあ、そんなことを評論家的に書いてる暇があるんなら、降格争い真っ只中の柏スタジアムに足を運べ、って感じなんだけどな。


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October 07, 2004

イチローフィーバー鳴り止まぬ日々に

実に三週間ぶり以上ですw
この三週間内に、何をしていたというわけでもないのが、ミソ。
忙しいときのほうが更新したりするんですよね、ジッサイ。

それにしても、ここまでくると、ブログをつけるという習慣をすっかり忘れておりました。
てか、今日書き込もうとしたら、ブログのIDを忘れていて、3回やり直した・・・

この話題には触れずにきたのですが、ひと段落して踊り場にいる今、やっぱりちょっと書いてみましょうか。

ストライキの週末が終わり、セ・リーグのペナントが決まり、パ・リーグのプレーオフが佳境を迎え、とかつてない盛り上がりを示した球界だけど(内容はどうあれ、野球のことがこんなに人々の話題に上ったのは、実に30年ぶりぐらいじゃないだろうか)、何度も書いている通り、野球のテレビ観戦すらしなくなっている僕にとっては、さしたる影響もない。
だから、この問題でことさらに噴き上がっているわけではないし、かしましいだろうと予想される各種ブログなども一切見ていない。せいぜい、スポーツ紙と全国紙の記事と社説を軽くチェックしてたぐらいのものだ。

といっても、つまり、いくら野球には関心が「ないことにしている」とはいっても、労働運動/社会運動としての今回の事件に関しては、ちょっと思ったことを書いておこうかな、と。

読売の社説とかは予想通り酷かったけれど、まあこれは予想通りで、噛み付く必要もないでしょう。
むしろ今回気になるのは、夕刊紙お得意の全方位叩きだね。当然のようにオーナーの頑迷さと経営感覚のなさを攻撃した返す刀で、「高給取りのストライキ」をぶった斬り、最後っ屁に、そんなストライキを手放しで賞賛するファンを揶揄する。

でも、それはどうなんだろう。
むしろ今回は、フリーランスの高給取りが、必ずしも短期的な意味での自分自身の所得向上にはつながらない「労働運動」を先導した、ってことこそが、象徴的に重要な意味を持ったんじゃないだろうか?

言うまでもないことだけど、近鉄とオリックスが合併しようが、古田はでんでん困らない。彼が解雇されることもなければ、それが原因で年俸が下がることもない。
これは古田だけじゃなくて、選手会の役員になっていた各チームの主力選手(もちろん近鉄の磯部も含む)も同じこと。

あの大阪→東京→名古屋と古田の移動に合わせて行われた「労使交渉」を、合併に伴う解雇・リストラに反対した団体交渉と額面どおり捉えるなら、そこで直接に被害をこうむる可能性があるのは、近鉄とオリックスのしょぼいプレーヤーなわけですよね。
労働待遇改善は、「自己責任」による「キャリアアップ」によってなされるべきものと信じられて久しいこのネオリベラルの時代に、絶え間ない自己陶冶を続けるフリーランス・ワーカーの象徴であり、わかりやすい勝ち組であるプロスポーツ選手の、しかもトップ・スターたちが、自分たちに直接関係のないボンクラな選手たちの雇用を確保するために、古めかしい「組合」の語彙を使いながら、団交をする・・・ (もしかしたら、その交渉の過程で、サラリー・キャップ制のような、トップ選手自身の利益を阻害する方向性が出てきてもおかしくないにもかかわらず。)

この絵面は、一般に思われているよりも結構画期的だと思う。
集合行動が原理的に不可能になりつつある"Liquid"なこの後期近代に、まだ労働運動という古典的な集合行動が、何らかの集団的な利益を求めた目的を達成し得る余地があること、これを瞬間的にとはいえ示せた意義は、かなりでかい。そう評価していいと思う。
少なくとも、トップ選手たちが、自らの待遇改善を求めてゴネにゴネた90年代半ばのメジャーリーグのストライキとは、比べようもない。

金融業界にたとえて言ってみれば、何億も稼ぐようなディーラーたちが中心になって、統廃合によってリストラされる行員を救うべく、統合反対の運動を起こして、経営者側からなんとか代替案を引き出したようなもんだからね。一般社会から考えたら、どれだけありえないことをやったか、ということです。
それが、野球界という、特殊な注目を集める戦場だったからこそ、何とかあそこまで漕ぎつけることができた。それに対して、「一般社会じゃありえないようなことをしやがって、球界は甘ったれてる」と悪態をつくよりは、「こんな闘いかたもアリなんだ」と括目する方が、よほどご自身のためだと思いませんか?>夕刊紙を読んでる労働者のみなさま。


まあ、もちろんあの一連のストライキは、労働運動という土俵でやらなければならなかったから、雇用確保という論理を組み立てざるをえなかったわけだけど、もちろん、それはとってつけたお題目で、本来的に目指していたことは、合併反対・リーグ縮小反対そのものだろう、というのは、その通り。

でも、それを一般ファンにどうこう言われる筋合いはないわけですよ。
何せ、「合併反対・リーグ縮小反対」という目的は、野球ファンという消費者にとっての利害。だから、以前主張したこととも一部かぶるけれど、本来であれば「消費者運動」としてやるはずのことを(そして、最近ではJチームのサポが手探りの中でなし得ていることを)、古田さんたちが代わりに戦ってくれたというのが、今回の基本的な構図。

だから、本当に野球が好きな人たちなら、自分たちが有効な消費者運動を起こすことができなかったことをトップ選手たちに恥じ入るべき、というぐらいの巨大な借りができちゃった、ってのが本当のところじゃないのかな。

じゃあ、正直どんな消費者運動がありえたか、というか、現時点ではまあありえないんだけど、どんな方向に持っていったら野球でも消費者運動が可能になるか・・・というと、やっぱりJリーグのサポーターはかなりモデルになるだろう。
おらが町のチームを、ファン=消費者自らの「モノ」として、守り、育て、そして口も出す。こう言ってしまえば単なる理想論に終わりがちな消費者参加型のモデルが、どんな場合に可能になるかと一言で言ってしまえばそれは、「ショボい試合を見守り続けるという行為を、思い入れとコミットメントで代補する」ということに尽きるわけだよね。

「経営」の論理と別の地平で、おらが町のチームを育てて行こうとするならば、それは必然的に、そのチームには大したコンテンツが揃わないことになる。平たく言えば、いい選手はみな流出して、残されたチームは、弱くてショボイものになる。

でも、チームへのコミットメント/インボルブメントがあれば、ショボいプレーを見させ続けられることに何とか耐えることもできる。アーセナルのプレーは確かに華麗で見ていて魅了されるけれども、本当に熱くなれるのは、自分の生活そのものが巻き込まれてしまっているおらが町のJFLチームのショボいプレー・・・
これは、ロンドンやマドリードやミュンヘンに産まれつくという幸運に恵まれなかった世界中のフットボール・ファンが持っている感覚と、そっくり同じモノでしょう。(たった10数年で、曲りなりもここまで漕ぎつけることを可能にした、「Jリーグ100年計画」のコンセプトを、基地外扱いされながらも唱えつづけた川淵氏というのは、何のかんの言って、ものすごく大人物だと思う)

今回の野球界の件で言えば、何も近鉄ファンだけがショボいプレーに耐えるべきだという訳ではない。
大半が赤字球団である12球団という枠組みを存続するという形で、経営的観点だけに囲い込まれない球界というものを構築していこうと本気で言うのなら、メジャーリーグという金銭感覚の狂った世界が同じ惑星に存在する以上、日本球界全体から、やっぱり一時的には選手がどかどか流出するのはやむを得ない。
しかし、その「しょぼさ」を、ファン=消費者自身自らが納得づくで選び取ったものならば、経営者に与えられた1リーグ8球団にそれ相応のプレーを見せていただくよりも、よっぽど熱くなれるんじゃないか、ということだ。

別にメジャーリーグ的スペクタクルから、完全に背を向けろと言っているわけではない。
前にW杯のときに書いたことだけど、ロンドンで知り合いになった、イタリア半島南端のカラブリア州、そのまた南端の小さな町から来た留学生は、セリエCの地元チームを最も実存をかけて応援し、セリエAでは同州にあるレッジーナをなかなかの実存をかけて応援し、しかし優勝争いやヨーロッパ・レベルではプレイスタイルの好きなユヴェントスを贔屓にしていた。これがイタリアの田舎町のサッカー好きの、標準的なあり方だという。

それに倣えば、四国独立リーグのしょぼいチームを実存をかけて応援し、ペナントレースでは阪神に熱狂し、同時にマリナーズの外野手の華麗なバットコントロールに酔いしれるということも、充分に可能なわけだし、むしろとても自然な行為なわけだ。

野球ファンという巨大なマジョリティ層に、そんな行動と意識が根付いていくとしたら、この国の資本への向き合い方であるとか、地方分権であるとかという、喫緊の課題も、ずいぶんいい方向に転がって行くと思うのだが・・・というのは、長くなるからまた別の話。

まあね、でもこれはすべて自戒を込めて。
生まれてこの方住んでる町に、最下位をひた走るサッカーチームがあるのに、そっちはスポーツニュースを見るだけで済ませちゃって、チャンピオンズ・リーグはしっかり夜更かしして見るわけだからね、自分。
愛着を生じさせうるコミットメントへの障壁はやはり、「時間」と「根性」だーね。

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