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April 27, 2004

間の抜けた時期の投稿ですが・・・自己責任異論I

長いこと相すみませんでした。先々週の末からしばらく多忙な日々が続き、終わったと思ったら、ひっくり返るような事態がまた発生し・・・という日々でした。一週間以上過ぎ、世の中の流れ的にも、まさにマヌケな投稿です。

この一週間は、ウェブはおろか、新聞やニュースすらもろくすっポフォローできていないので、「ネット世論」の動向どころか事実認識にも間違いがあるかもしれないが、例の人質事件の「世論」は、2割程度の国家主義的な強硬論と、2割程度の平和主義的な撤退論が対峙し、そのあいだの6割が「自己責任」を合言葉に一旦雪崩を打って、その後若干揺り戻し、といった総括でいいだろうか?

ここの13日の記事で「国家の視点」とまとめられている人たちに対しては、もはや言うべきこともない。それは僕が、「他者の恐怖との付き合い方」でジェリド・メサくんたちと呼んでいた人たちだが、その人たちが自らと「国家」とが一体化したかのように「異分子」の「自己責任」を追及するのならば、その批判は別の人に任せよう。

今回の一件での気持ちの悪さの最大の理由は、どこででも言われているらしいことだが、「自己責任」を合言葉とした中間層(?)の雪崩現象にあるだろう。敢えて言えば、一般世論の2ch化とでも言おうか。(いまの2chをはじめとした「ネタが飽和してベタになった」ネット世論に、W杯での「韓国誤審騒動」では百歩譲ってその機能的意義を見出しえた、「奇麗事ばかり言うマスメディアへのカウンター」という存在価値はない。たとえば、「社会派くんがゆく!」での村崎・唐沢両御大の珠玉の批判精神も、今回はただ単に居酒屋の愚痴を増幅した罵詈雑言に過ぎなくなってしまっている)
それがなぜ起こったのかという分析も各処でされているのだろうが、全く目を通す余裕もなかったので、もしかしたら今や当たり前な論点かもしれないが、一応見解をまとめておく。
(高遠さんら3人をまさに「人間の盾」として、その陰に隠れた観のある安田さんら2人に関しては、とりあえず今回は触れないことにする)

人質事件発生当初、至るところで「プロ市民」の今井君や高遠さんに対するフレームアップが起こっていたが、彼らのイラクでの活動がどれほどダメで欺瞞的なものなのかは、それほどきちんと呈示されていなかったし、多くの人たちも、そんなところに関心は示していなかったように思う。その証拠に、「自己責任論」の最右翼であった週刊新潮の中吊り広告で一番目立ったのは、イラクにおける人道支援の「偽善」を真っ向から批判するキャッチではなく、あざといほどに3人の過去や家庭環境を暴いた大見出しだった。

それを見て僕は、ああ、多くの人たちはいま、「社会正義の実現と言う志を持つこと」や「他者と向き合おうとする善意」をこんなに怖れているんだな、だから彼らをレッテル張りして、「あっち側」に切り離したくて仕方ないんだな、と感じていた。さらに強い言い方をすれば、ジーコ・ジャパンを見て「チームが壊れてゆく」悲しさを味わうのと似て、「この社会が壊れてゆく」(あるいは「この社会が既に壊れていたことに気づいた」)寂しさを味わっていた。

むろん僕も、NGOの「志」や「善意」を一義的に肯定することなど愚の骨頂ということぐらいわかっている。基本的に、このわりと有名な山形浩生の文章は正しいと思っている。
「善意」や「志」の検証は必要だ。ただ、3人の件に関するバッシングでは、「志を持つこと」を即「幼稚なこと」「世間知らず」と捉える傾向が強かったように思う。(「ネタ」としてであれ、「ベタ」としてであれ。今回に関しては、この二つを一生懸命分ける意味はあまり感じない。それは上の「社会派くん」を見ても明らかでしょ?)

しかし、それは諸刃の剣だ。「志への躊躇」や「志(を強制されること)からの自由の確保」は確かに、安易な噴きあがりで周囲に迷惑をかけることを戒め、「大きな物語」への距離感を取る上で大事なことだ。masa-nさんが「卑賤の民の知恵」と呼んだ、「地に足の着いた人生」をこそ称揚するその態度それ自体は正しいし、僕自身旧サイトから一貫してその立場を支持してきた。
ただ、「卑賤の民の知恵」としての「志への躊躇」は、原理的に現状維持的な保守主義にしかなりえず、さらにそれが「志への禁忌」「志(を持つこと)への自由の禁止」というより積極的な命題になったときには、現状を強力に肯定し、権力を持つ者をほくそえませる結果にしかならない。そのことが、今回の一件で大分はっきりとしてきた。僕自身、強引な痛みを強いながら経済成長を取り繕うとする小泉政権がどうしてここまで高人気を誇っているのか、うまく分析できていなかったが、この感性の蔓延で大部分説明できそうだ。(ことここに至るまでそれがわからなかった自分の不明を恥じるが)

この「志への禁忌」の正体は何か。そして、それはどうしてかくもこの社会に蔓延してしまっているのか。これこそがいま分節化されるべき、最大の問題であるように思う。

「志への禁忌」は、何らかの個々人の「不幸」を、天から与えられた「不運」ではなく、解決されるべき「問題」として「社会」のアリーナへと引きずり出して交渉する/抵抗するという戦略(この積み重ねで、近代社会は少しずつマシになっていったのだ)を、原理的に否定してしまうのではないか。「志」のない「卑賤の民」は、占領と言う「不幸」に対して抵抗を続けるイラク人やパレスチナ人にどう声をかけるのかを、考えてみればいい。おそらく、こう「良心的」に語りかけることだろう。「あー、どうせ敵わないんだから、とっとと降伏しちゃいなよ、アメリカに抵抗してる一部の噴きあがった連中のせいで戦争が長引いているんだ。殺された民間人? 運が悪かったんだよ、こんな町に生まれついたあんたらの運が悪いんだよ・・・」

人質事件に関連する最初のエントリーに書いたように、イラク人やパレスチナ人の運命などどうでも構わない。そう日本人が考え、世界システムの中で「運が悪く生まれついた」遠い国の他者たちを見なかったことにするのは、それほど不自然なことではない。
しかし、一連の「自己責任論」の噴出を見てゆくと、この社会の大半の人たちはいま、より狭い社会内の近い他者の「不幸」に対しても、あるいは極端に言えば、自分自身の「不幸」に対しても、この「志の禁忌」を貫徹させるのではないか、という危惧がぬぐえないのだ。
近所の公園にいるホームレスに対して、親戚の介護疲れの初老のおばさんに対して、そして、自分自身のリストラの危機に対しても。

そういった意味で、今回の「自己責任論」の噴出と、リストラの嵐の中でまともな労働運動がますます退潮していったことや、小泉政権の「痛み」に耐える妙に物分りのいい国民の姿とは、同一地平線上にあるように思う。
失職も、就職難も、ホームレスも、「自己責任」。そうならないために、仕事のスキルをアップし、自分を磨き、英会話に通おう。そうしないと、明日は我が身だ。労働組合の旗を持ってサービス残業やリストラに反抗したってどうにもならない、今はそういう厳しい時代なんだから、何とかその中で生き残っていかなくちゃ。
・・・これでは、結局のところ、近代初期以前の都合のいい労働力にしかなりえないのだが。

そこでは、自らや周囲の「不幸」を「社会」のアリーナに呈示し、システムの改革を要求することは、むしろ「邪魔」なことだ。そんなことをしている余裕は誰にもなく、おかしな「志」を持っているのは、幼稚で世間知らずな人間。時には「自己責任」と言うには酷な人(障害者とか)もいるかもしれないが、まあそれは止む無い「不運」として見なかったことにしよう。

こうした状態では、有効な集合行動など、成立しえない。
人質事件の「自己責任」の大合唱から、ここまで思考が飛躍して、「社会が壊れた」寂しさを感じていた僕は、少し牽強付会に過ぎるだろうか?

「自己責任とは何か」の問いだけで、ちょっと長くなりすぎました。
「なぜ」の問いの方は、次のエントリと言うことにします。

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